2009.11.18.wed

ふわふわアニメ見た?
こういった技術はワシらの予想をはるかに越えて、ちんまい子どもにも新しい表現を与えてくれる。子どもたちの制作のフィールドは、テクノロジーによっても広がっていくんじゃないかと大いに可能性を感じるぞな。反面、古い技術はそのときのテクノロジーを最大限に生かした工夫のたまもの。活版印刷や写真の原型、それに今度チャレンジする謄写版なんかも、学ぶことはほんとに多い。子どもたちには「つかいかた」ではなく「しくみ」を理解してもらいたい。そこに新しい技術もミックスされることで、思考や発想に幅が出てくるのではないか…そんなこんなを考えてたら、しばらく前に書いたある文章を思い出したのだ。引っ張りだしてみたら2005年6月のイエローブック。当時は黄色い冊子だったのだ。長くえふでに来てる子は懐かしいであろ。後ろの方にあるコラムを読み返してみたら…ワシってば相変わらず、今と同じこと言っとる!ちょうどこないだののこぎりの授業でもこのはなししたばっか!ちと長いがいい機会だからアップしとこ。

「もう古いと誰も見向きもしなくなった昔の仕組みを、最新の素材でつくれ」調べ物をしていたら、こんな言葉がありました。自動車・オートバイメーカーのホンダ、本田宗一郎氏の口ぐせだったそうです。
 昔のものは、そのときの最新の努力の結果です。技術はどんどん進み改良されていきますから、昔の仕組みというのは、古い物として無視されてしまうことがほとんどです。しかし、どんなものでも制作する人の努力がつくりあげたものです。その当時としては手に入れられる素材の質や、加工技術の精度の問題から、どうしてもそうするしかなかったという、さまざまな必然性がつまっています。技術の次の出口が見えないとき、なぜそのこたえを出したのかが、大きなヒントになるということも重ね合わせて、そんなげきを飛ばしたそうです。
 とはいえ、自分に重ねて見れば、できそうでありながらなかなかむずかしいことです。なんでもそうですが、少しずつ変化とともに進んできたものと、そうでないもの、学んだり、仕組みを考えたり、あたりまえのものであればあるほど違う視点から見るのは難しいものです。
 私たちが変化と一緒に進んできたものとしては、電話などがそうですね。コードレスフォンや、ポケベル、重い携帯電話からメールや画像の送受信、動画…仕組みどころか機能の使いこなしについてもかなりあやしいところです。しかし便利になりましたが、逆に電話なしで知らない街で待ち合わせができるかどうか、ふと心配になります。そうは言っても子どもたちにとっては生まれたときから、それがあるのがあたりまえ。昔冷蔵庫がなかったとき、テレビが白黒だったとき。コンビニがなかったときどうしていたのか、すぐには想像つかないのと大差はないのでしょうけれど。
 やりかたがわかればできる。しくみなんかより、使い方を教えてほしい。そんなふうに私たちは考えがちです。そう考えれば、教育についてもやり方や、解き方、答を教えることであるように思えるのもいたしかたないところではあります。
 さて、便利なものには隠れたリスクがあります。それはどんなものであってもそうです。快適なフライトであっても、位置エネルギーや運動エネルギーの大きさは、何かあったときにはいのちのかたちを変えてしまうほどの暴力性を持っています。例えば、のこぎりで木を切るのはすごく大変ですが、よほどのことがなければ大怪我にはなりません。ジグソーと呼ばれる、10センチくらいの刃を持つ電動工具を使えば、少し危ないですが、手で切ることに比べればずっと早く、楽に切ることができます。しかし丸のこと呼ばれる回転式ののこぎりは、非常に早く、効率的に作業することができる反面、何かあったときの危険性は、手で扱うのこぎりの比ではありません。手でも指でもスパスパ切れてしまいます。
 そんな危険から身を守るには…ひとつの方法は、近付かないことです。触らない、やろうとしない、やる必要ができたときは、できないと諦めるか、だれかにやらせる。もう一つの方法は、学習です。同じ要素を単純なものから、何度も反復して体験し身に付けていく。可能性としてのリスクを受け入れ、便利さを受け取る。突発的なことを含め、できるかぎり危険を排除していく。高すぎるリスクは排除して、そこまでは求めない。仕組みを考え、成り立ちを考える。工夫し、ありったけの感性をつかって判断する。さて教育に求められているのは、近付かないというわりきりでしょうか、それとも仕組みを考えながらの学習でしょうか。
 とはいえ、だれもが不完全な人間です。よそ見をし、段差につまづき、風呂をあふれさせ、カレーをこがし、約束を忘れる。
 いちばん危なっかしいのは大丈夫だと思っている自分自身かも知れません。

2005年6月のイエローブックより