● 2014年2月 ふたつのロードアート、できました!

大人もこどももがんばった!今回の冬のロードアート。えふで史上初、というか、冬期に道路を歩行者に開放するという『冬の歩行者天国』そのものが、降雪地帯の都市部で初の取り組みなんだそうです。しかもこの冬は年末年始に、それぞれ異なる2つのロードアートを開催し、無事に終了いたしました。

12月23日の『ウェルカム・サンタ』では、道路に大きなクリスマスツリーの絵ができました。親子みんなでせっせと編んだ、緑の毛糸のキャップとロープを、大塚いちおさんの色鉛筆の線に見立て、こどもたちが順番にすべて運んで完成させました。ツリーを飾るオーナメント役も、小さい子どもたちが担当。まるいカラフルな飾りがかわいかったですね。

明けて1月12日の『ペンギン・ワンダーランド』では、道路に雪でできた巨大キャンバスが出現!雪まつりや深夜の除雪などでもおなじみ、世界一の技術を持つと言われる札幌市の除雪チームが登場。いつもは道路の除雪をしている方々が、実質20分くらいで、3車線にまたがるくらいの大きな雪のキャンバスをあっという間に作ってくれました。本当にすごかった!それぞれ実はすごく多くの人たちが関わったプロジェクトでした。どちらも天候が微妙で、特に1月のペンギン・ワンダーランドは粉雪が降ったりやんだりで、たいへんに厳しいコンディション。しかしえふでが体育会系と言われるのもむべなるかな。参加のみなさんはほんとうによくがんばりました!こどもはもちろんですが、こういう活動に送り出してくださる親御さんもすごいです。

他にも初の試み、えふでバザールのお母さんがたにも感謝です。知られざるえふでママの一面が垣間見え、えふでっ子のがんばりの秘密がちょっぴり解けたような気がします。また暖かい飲み物は、ロードアート活動中のみんなの冷えた体に効いたことでしょう!

実は年間積雪量6mクラスの100万人都市は世界で札幌だけなんだそうです。ロードアートが、今までにない視点で「自分たちのことを考え」、「気づいていなかったよいところを認識し」、「問題解決のアイディアにつながる」。そんなきっかけになったらよいな、と考えています。

● 2014年1月 みんなの道路のこと、未来のこと。

まほうの絵ふではこの冬、ふたつの大きなロードアートを開催します。ひとつは、こどもたちのクリスマスのための「▶Welcome Santa」。そして雪道の安全対策の際に滑り止めに使う砂を使った「▶Penguin Wonderland」。いずれも絵を描くための画面になるのは、ふだんは人や車が行き交う「道路」です。そこで、この号では道路に関していろいろと聞いてみようと思い、道路の専門家である澤さんにお話を伺ってみました。社会のこと、私たちの住む北国のこと、こどもたちの未来のこと。特大号としてお届けします。

澤さん=澤 充隆(さわ みつたか) さん
札幌市出身。85年札幌開成高校卒業、89年法政大学土木工学科卒業後、北海道開発コンサルタント(株) に入社(01年より(株)ドーコンに社名変更)し、交通計画・道路計画の分野を 担当。08年から交通・道路に関する技術を活かし、サイクルシェアリングの 事業化を目指した実証実験「▶ポロクル」に深く関与。11年地域のプレイヤー との連携を真骨頂とする(株)ドーコンモビリティデザインを設立し取締役に就任、札幌都心部にて「▶ポロクル」を展開中。現在に至る。

<道路の役割って?>

校長:今まで何度もロードアートをしてきていますけど、正直全然、道路自体の話など考えたこともありませんでした。道路作ってる人とか、管理してる人たちがたくさんいるのにね。法律とか細かいことなどもいっぱいあるんでしょうけど、自分たちはね、ロードアートやりたくて、いつも勝手にやらせていただいているばかりですみません。
澤さん:いえいえいえ。
校長:道路のお仕事をされてる方から見て、ロードアートはどうですか?一般的にはこどもが楽しそうにしてるって見られてますけど、こどもたちに「片付けまでしろ!」って言ったり、実はこちらがやらせてる部分もすごくあるので、傍目で見ててどうかな?っていう心配もあるんですけど。
澤さん:なるほど。…その前にまず道路の話をさせてもらうと、道路には三つの機能があるって言われていまして。
校長:ほう。
澤さん:ひとつはトラフィック機能。移動体、つまり自転車だったり自動車だったり歩行者だったりを円滑に流す機能。それからアクセス機能ってのがあって、その移動している人たちを、目的地に届ける、つまり建物などの入口と接続するという機能。
校長:はいはい。
澤さん:それともうひとつ重要なのがスペース機能と言われていて。電気とか上下水道だとかのインフラを収納する空間。あと防火帯の役割もあるな。だいたいそんな機能を考えながら道路は作られてきたわけです。経済の発展とともに。
校長:ふんふん。
澤さん:そういう歴史の中で今、経済の発展どころか、人口も減少しようとしていて、道路の価値を見直したらいいのではないか?もっと有効に活用したらいいんじゃないか?という考えが、国策としても進んでいるところなんです。
校長:ふうーん。
澤さん:例えば、地域に住んでいる方々や、外から来た方たちに、おもてなしをする、楽しんでもらう。そのために何ができるか?ということを今いろいろと考えているところなんです。
校長:へえ。世の中には知らないことがいっぱいあるなあ。
澤さん:で、そのスペース機能を重視するという観点からロードアートを見ると、まず道路は当然、地域の活性化やにぎわいづくりのために存在しているという側面があるので、人がたくさん集まってきてワイワイやってるっていう姿がまず大きなポイントですよね。そう考えたときに、道路はトラフィック機能などを優先してつくられてきた訳ですから、それを止めてまでやるだけの意味があるならやった方がいい、そんな考えになってきたということなんです。
校長:それ逆の意味でいうと、公園とかがちゃんとあったらいいってことですか?
澤さん:うーん、たしかにそうですね。ただし、経済が優先されてきた背景に、密集する中心市街地では、人の憩いより、どちらかと言うと経済を優先するような思想が強い時代があったんだと思います。札幌は幸い大通公園がありますけどね。でも、パリなんかは堂々と人々が憩える空間をとってますよね。
校長:なるほどなるほど。
澤さん:歴史的な背景の違いがあるのかも知れませんね。
校長:北海道は道幅が広いでしょ?無駄なスペースというか、まあ除雪の関係もあるんでしょうけど。
澤さん:その通りですね。
校長:その意味では北海道は進んでるの?
澤さん:本州の道路はその多くが街道と言われる“人が歩く道”、そして次に“馬車が走る道”がベースになっています。つまりそんなに広く道路をつくる必要がなかったのかもしれません。北海道の場合は、開拓とともに自動車という乗り物が現れて、自動車を中心に道路づくりが進められてきた経緯があります。併せて、雪をためておく場所も必要ですよね。だから比較的広い道路が多いんだと思います。
校長:ああ、なるほど。澤さん頭いいなあ!おもしろい。
澤さん:ロードアートの意味をもう少し考えてみると、“ワイワイ”だけじゃなく、実はもう一つの意味があると思っています。道路を管理している側からすると、悩んでいることがたくさんあるんです。例えば、道路の予算が削られてきているので、道路管理者だけで守り続けることがだんだん難しくなってきている、なんてことが挙げられます。
校長:はいはい。
澤さん:で、もしそこに一役かってもらえるのならば…つまり道路を守るために、アートの世界とうまく融合できる部分があれば、こんなすばらしいことはない。それを表現する場がロードアートであるならば、なんて言うんでしょう、一石二鳥ですばらしいのではないかなと思います。
校長:うーん。びっくり。いつの間にそんな話に?!ロードアートってもともと、そういう感じでしてなかったものだから。
澤さん: まあ、そうですよね。
校長:今でこそね、いろんな人たちが関わってくれるようになって、ちゃんと「世の中のために」とか、「役に立つには」とかを考えるようになってきたけど。もともとはもっと、アナーキーなものでしょ。道路止めてさ。
澤さん:私が最近えふでの人たちと話していてびっくりしたのが…アートとか美術というものには、まあ、多少触れることもあったこの人生ですけど、校長の一言がすごく印象的で。要は「アートは無目的だ」と。「え、目的もないのに、じゃあ何をしているんだろうこの人たちは?」っていう謎がありますね、未だに。
校長:うーん、…この辺ね、まじめな人に聞かれると誤解されやすいことかも知れないけど、まあ、アートはアートのためにあるから、ねえ。でもロードアートって、「アート」って言葉がついてますけど、厳密にいうとアートではないんですよね。自己表現でもないし、字面がいいから使ってるだけで。
澤さん: そうなんですか。
校長:もっと言うと、ロードアートって、実はえふでがつけた名前じゃないんですよ。最初は、商店街の人たちが始めたものだったんだよね。当時はもっと、車が来てないからいいじゃん、昔の路地裏みたいに絵でも描こうよって感じで、ゆるゆる遊ぶような雰囲気だったんです。地面にこどもがいたずら描きする姿を昔はよく見かけたのに、最近はそういうのがなくなって何となく寂しくなったね、みたいな。
澤さん:これだけたくさんの人や物が移動するようになって、安全が最優先されて。これこそ国民性の問題なんですけど、道路管理者が全部その責任を負っているというような世界観がある。何か問題があったら道路が悪いって話になっちゃう。だからあれやっちゃダメとか規制をする。で、せっかく楽しい道路なのに、何かをやろうとすると大きな制約があるという現状があるんです。
校長:うんうん。でね、もともと「お絵描きしましょう」ってこどもたち集めて、自由に好き放題描かせてても、結局、最後はきれいにして返さなきゃいけないでしょ?だから商店街の大人の方たちが、終了後にそれを掃除してたんですよ。こどもは汚すだけ汚して、掃除もしないなんて、ワシとしては「んなわけないだろう!」って話で(笑)
澤さん:ああ、なるほど。
校長:あのね、こう言ってしまうと夢がない話なんですけど、みんな何でもありのものしかアートって言わないんです。そしたら、こどもたちに自由に絵を描かせるんだ、ということが目的化しちゃって、後片付けは大人がやらないと元に戻せないし…って。だから、まずえふでの最初のロードアートでは二十五メートルのプールの絵を描いたんですけど、終わった後は「プール清掃だ!」っていいながらデッキブラシでこどもたちに後片付けまでさせたんです。
澤さん:そういうことだったんですね。
校長:もっと言うと、例えばクレヨンって、こどもはさらさらっと使っちゃうんですよ。強く描けなくてね。でも人間には、ものを塗りつぶすとか、抵抗とか手応えを感じる時の身体的な快楽があるんですよね。「黒く塗りつぶせ」じゃないけどさ。でもねっちり塗り込むことって、「そう使いなさい」とか「やってもいいよ」って言われないと、なかなか扉が開かないんですよね不思議と。
澤さん:たしかに私の場合、たくさんクレヨンを使ったら、ちょっともったいないっていう気持ちが働いちゃう。
校長:ロードアートは道路の白線消えるくらいまで「しっかり塗り込め!」って言うんですよ。そうやっていったん方向が決まれば、みんなそこにぎゅっと努力できる。初年度はただ二十五メートルの枠の中を真っ青に塗るだけだったので、「もっと強く塗れ!」ってひたすらやってみたら、色も写真映りもすごく良かったんです。光の反射とかもすごくきれいでね。写真見た人もみんな、いいねえ!とか、何で描いたの?って言ってくれたの。
澤さん:それがガチガチのルールで固められた道路の上であるってことなんて関係なしに(笑)
校長:まったくね(笑)えふでもそうだけど、ワシらのまわりのクリエイターもほとんどそんなこと考えもしません。作品が良ければ、まず「すごい!」の一言。ところでよく道路上でライブとかしてますけど、前例としてロードアートに似たものってありますか?
澤さん:道路に直接何か造形をするっていうことは…そんなにないと思いますよ。道路の上で何かをする、ならたくさんあるけど。
校長:あれ、違法ですか?(笑)道路に絵を描くっていうのは。
澤さん:ええと、現状復帰をすれば違法ではないけれど・・・
校長:なるほどね。
澤さん:チョークで絵を描いたら消えないでしょって、その時、何で言われなかったんだろう?
校長:言われたよ。(笑)
澤さん:でしょ?!
校長:でも元に戻しますからって。もちろん毎回事前にテストもするし、最初のプールの時は掃除も徹底的にやったからね。でも良かった。澤さんから聞くとなんだか安心した。もう描けなくなるところだった。(笑)ところで、澤さんをはじめ道路関係の方たちにロードアートのことを話したのは、けっこう最近なんですよね。
澤さん:そう。一年半くらい前ですね。
校長:最初に聞いた時はどんな印象でしたか?
澤さん:はじめは「夏休みに『まほうの時計台』をする」って聞いてたんだけど、何を言ってるんだかさっぱりわからなくて。国を守るために存在している直轄国道で何をしてるんだ、とびっくりして。終った後の動画を見て、「はあ~!なるほどね!」って(笑)。
校長:直轄国道とか言われても、こちらは「へ?何のことですか?」と。お互い様ですね(笑)
澤さん:そしてその後、他のロードアートの記録も全部見て、こりゃすごいってことで、私が知っている道路関係者に広めました。
校長:みなさんの反応はどうですか?澤さんはこういうのを喜んでくれて、その業界では特殊な部類の人に入ると思いますけど(笑)きっと苦々しい顔する人もいるんじゃありませんか。
澤さん:うーん、たしかに、「オイオイ!」って思う人はたくさんいると思います。後で「道路で何やってるんだ」って電話がくるかも知れないから、それに対する答えも用意しておかなければならないし。でも、最近では、さっきお話した“ワイワイ”や“道路を守る”ということに関して意味のあることであれば、やってもいいんじゃないか、って思っている人が時代の変化とともに増えてきたように感じます。
校長:ロードアートは正直、こどもが主役じゃないからさ。あれだけ大きいものになっちゃうと、全部こどもが考えました、なんてそりゃ嘘ですよ。ある種大人が巻き込んで、大人がその活動に対して一緒に協力してあげようっていうんじゃないと。
澤さん:そりゃそうですよね。
校長:あれだけいい歳の大人がおもしろおかしくやってることに対して、こどもも一緒に巻き込まれてやってるっていうことについては、巻き込まれる方の快楽もあると思うの。例えばね、大雨降ったらみんなすごく困るんだけど、いやあ、もうずぶぬれになっちゃったよって喜んでるところがあったり。もちろん災害までいっちゃったらダメなんだけど、ほんとに土砂降りに当たっちゃった時に「まいったなあ」って言いながらも、ほどほどにうれしそうな感じっていうかね。自分よりも力のある物に当たった時のある種の喜びみたいなものがあるでしょう?
澤さん:はい、はい。
校長:あくまでやってるのはこどもたちなんだけど、やらせてるのは事実。おもしろおかしくとか、まじめにおもしろくとかが行き過ぎると、それはある種の頭おかしい集団になるんだけど(笑)、こどもの頃にそういう大人たちと一緒に経験するのは、悪いことじゃないと思う。
澤さん:この間のロードアートRocca Railsでいうと、あれはこどもたちが楽しそうな側面と、やらされてる感とが両方あったのかなと何となく感じていて。結局最後の風船割るのが一番楽しそうだったなというのはあるんだけど(笑)何かこう、案外訓練されたこどもたちだったので、これでほんとに楽しいかな?というのはちょっと感じました。それに対して、その前の冬の方は、雪の上に並んで歩いたりしてるだけなんだけど、こどもたちはかなり楽しそうにやってて。

<少年野球とこどものアート>

校長:澤さん、少年野球のコーチをしてたことがあると聞いたんですが。
澤さん:はいはい、やっとその話がきた(笑)これがメインだと思ってた。
校長:その目線で見るとどうですか?
澤さん:ひとつ言えるのは、野球もやっぱり、頭で理解して体を動かすっていうところまでいかなきゃだめで。そのための基本的な考え方とお作法みたいなのはあるわけですよ。野球にも華麗なプレーとかいろいろあるわけだけど、結局は基本的なプレーの積み重ねとか組み合わせなので、そのひとつひとつを分解して理解していないと、たぶん成長が遅いんだと思うんですよね。できちゃう子は何も考えなくてもできちゃうけど、そういう子って天性のものなので、伸びが止まっちゃったらそれで終わり。小学校三年生の時はいいけど、六年生になったら今ひとつって、そういう子が多いんですよね。
校長:うーん。
澤さん:だから積み重ねです。ひとつひとつ細分化されたものの積み重ねでプレーが良くなるので。それがプロ野球選手になるなら話は別だけど、そうじゃなくてそこから社会に出て行くためのプロセスを勉強する場であるとするならば、凄く野球はいいと思うんですよ。
そういう意味でいくと、美術にもきっとそういうロジックがあるんじゃないかなって思いますがいかがですか?
校長:その意味では、えふでは絵画教室ではなくアートスクールだと言ってて、中高生は絵画が中心にはなっているけど、小学生までは絵も工作もするんですよ。やっぱりね、自分たちも上の世代からは「何もできなくなってきた」と言われてたんですよ。生活経験が何もしなくてよくなったよねとか、テレビも電話もあるから、とかいう感じで。その意味で言ったら、身のある議論ではないかもしれないけど、物を縛るとか、火をつけるとか、なんかこう根っこにあるものの経験値はガックリ落ちてる気はするんです。だからえふではね、こどもたちに何せ、広く浅く一通り全部やらせようとしています。経験値をまずあげることがひとつの鍵かなと。限界はあるにせよ、今この環境の中でやれる範囲の中ではそうとうやってると思う。
澤さん:感じますよそれは。こどもたちを見てて何となくわかります。これを小学生が作ったと思うと…ということが、大人になってすごくわかるようになってきました。昔は理解できなかったけど。
校長:あとこれもこどもたちにいつも言うんだけど、我々凡人は、ゼロからすばらしいものを作れると思うな、と。結局ね、既にあるものを学び、どうやってこの組み合せを考えたわけ?って言われるのが限界だろう、と。ほんとにもう、未開のテクノロジーが細分化していっちゃってるから、原理・原則を発見したということがどんどんなくなってるんですよね。
澤さん:そうですよね。
校長:野球をしているこどもたちに学ばせたい一番のことは何ですか?
澤さん:いろいろありますけど、私が声を大にして伝えたいのは、結果ではなくてプロセスを重視するということです。自分がなぜ打てないのか、問題を自分で発見するのはできなくても周りから言われて、だから打てないんだということに気がついて、じゃあ「こうやってみよう」「こうしよう」とかやってみて、そこに変化があったらそれを体得していく。そこのプロセスは、問題発見、解決のトライアル、体得という繰り返しの作業です。でもそのプロセスがないと、その次その次に行けないんじゃないかなと。牧場で駆けっこしてすりむいた経験がないような子たちが育っていくわけだけれど、それこそ校長が言う、いろんな経験をね。せめて野球でもして、そこのトライアルのプロセスをうまく得て欲しいなと思う。
校長:なるほど。野球って打順とかフィールドの守備範囲とかあるじゃないですか。今ね、もうみんなスポーツ教育が良くなってきちゃってるから、サッカーなんかでいえば小さい子なんかは球にワーッて集まるようなところが昔はあったでしょ?今はもっとなんか大人っぽくなっちゃったけど。
澤さん:まあまあ、今でも体育の授業はそんな感じだと思いますけどね。
校長:野球の場合は順番待つとか、まわりのことを考えるとか。ある種、それは原初的なものではなく、精神的にレベルの高い話じゃないですか。
澤さん:それもそうだし、グラウンド整備も自分でするし、物を大事にしないやつは一番悪いっていう教育はどこのチームでも必ずしています。グローブ投げたりするようなことは、ぜったいアウト。
校長:ああ、ほんとにそうなんですよね。工具投げちゃうんだよね、こどもたち。自分たちも忙しくなってくるとポンッて投げたくなるんだけど、やっぱりね、良くないですよね。道具が自分を助けてくれなくなっちゃうからね。
澤さん:サッカーだと九十分常に走っててそれぞれ役割があるけど、野球の場合、少なくても打撃の回で自分の打順が来るまでは何も仕事がないわけで。もう見るしかない。そういう意味では、こどもたちが我慢しなきゃいけないことは相当ある。1年生からでも試合に出るから、無理矢理でも我慢させる。我慢できないなら出さないぞ、ってね。
校長:絵の場合はね、ある種のみんなの理想があるんですよ。どっちかというとね、原初的な衝動を外に出すのが偉いっていうね。
澤さん:ああ、「芸術は爆発だ!」みたいな。
校長:そうそう。でもそれは、いわゆる自我がはっきりしてくる十四歳以降で十分だとワシは思うんですよ。もちろん小さい子が素直に感情を出すっていう大事さもあるんだけど、アートを通した教育ではそれをしなきゃいけないのかいうとね。もし感情の爆発がアートなんだとしたら、手足バタバタして泣き叫ぶのもアートなんですか?って。
澤さん:なるほど、むずかしいなあ。じゃあ、岡本太郎さんは?
校長:あれは戦略だもの!知性の塊だからね。彼はめちゃくちゃ頭いい人ですよ。
澤さん:なるほどねえ。そういうことなんですよね。
校長:だから、こどものアート活動に感情や情動の爆発を求められるとすごくつらいんですよ。一般的には、社会や大人がこどもを抑圧しているという根強い思いがあるのか、アートで発散させてほしいという期待もあるんですよね。少なくてもえふでに来ている親御さんたちには、そうじゃないですよってなるべく言うようにしています。
澤さん:そうか。でもそれは野球少年の母親父親とは全くちがう感覚だな。もっと抑圧されるもん、野球の場合は(笑)。どっちかというと規律を守る子にしてくださいとか、そういう気持ちで来る親御さんが多い。
校長:たださあ、やっぱり上にいく子って、ガキ大将じゃないですか?どこのチームにいても、ピッチャーで四番でしょプロになるような子は。その意味では、基礎教育に何を求めるのか、という。
澤さん:多くの人は、甲子園くらいの夢は持ってるかも知れないけど、プロ野球選手になんかなれるわけないじゃんっていう感じで来ます。そしてプロ野球選手になるような子は、知性も身体性も優れていると思うんだけど、多くの子は、身体性はさほど強くない。
校長:まあ、認識能力とかぜんぶそうですよね。
澤さん:体は正直、繰り返し練習をしないと体得できないんです。反面、知性はロジックなので、まだ伸びやすい。コミュニケーション能力を高めて、問いかけ問いかけ問いかけ…を繰り返していく。勝つためにはある種のずるさも必要だし。
校長:えふでも、わかりやすいので「ずるさ」って言葉を使っちゃうんですけど、ラボの授業でいつも言うのは、サッカーの用語で「マリーシア」ってあるんですけどね。ポルトガル語なのかな?したたかさとか、ずる賢さとか。勝つための戦略を考えるってことね。
澤さん:はいはいはいはい
校長:こないだたまたま本で読んでたんだけど、数学的な思考をする時にね、最短距離をいく思考をしない人間はだめだって。っていうのはね、結局「美しくない」と。最終的に答が合ってれば良いのではなくて、そこに行き着くための最も合理的な道筋を探すことが知性だし、それが研究であると。でも中高生は学校で「ずるくやれ」って言われることはあまりないと思うんです。
澤さん:それはそうですよね。学校では、解法をそんなにたくさん教えてくれるわけではないですしね。でも今、校長が言ってるのは、答がひとつある問題だとして、何通りもやり方があると。微分してもいい、方程式を解いてもいい、帰納的に考えてもいい。それを最適化するためには、いくつかのルートをちゃんと知っていなければいけないわけですよ。知識としてまずそれがあった上で、どれが感覚的に早そうなのかを瞬時に見分ける能力ってことであれば、一番すばらしいことですよね、それが。
校長:藤原雅彦先生がね、おっしゃってたんですけど、結局何もかも、すばらしいものは美しいんですって。何でかわからないんだけど、そうなんですって書いてあった。そういうものだと思うし、とてつもない自負があるでしょう?どうせお前らにはわかんないだろうっていう。美しさがそこに関係してるんだ、説明できないけどそうなんだという。
澤さん:たしかに。それはその域に達しないとわからないことだと思う。東大の研究室の人たちと私が話しをしたことがあるんだけど、ひとつの問題をプログラミングして解くのに、その時間を競うというのがあるらしく、歴代記録の更新を目指して頑張るみたいで(笑)そこには数学的な美学があるんですね。
校長:たぶんね、やってる人が見たらすごいおもしろいんだろうね。そういうのってありますよね、スポーツにも、もちろん美術にもあります。
澤さん:スポーツはそこまでわからないけど、少なくとも数学とか社会的な計画を考えようと思ったら陥りがちな落とし穴があるというのはわかります。評価軸が美しいかどうかだとしたら、どのくらいの人が見てそう思うかという価値規範みたいなものが…
校長:うーん、それはね、いわゆるポピュラリティの問題ではないから難しいんだよね。
澤さん:ただ、道路側に話を戻すと、道路とか公共物とかにはやはりポピュラリティみたいなものが重視されなければいけないという側面もあります。
校長:ちょっと反省はあるんですけど、ロードアートでいえばね、世間からこどもがどう見られているかを意識しているところが大いにあるかもしれない。今の、こどもはのびのびさせるべきだという風潮に対して、ある種のアンチテーゼになっちゃってるかも。過保護っていうと言葉が古いけれども、ロードアートはそっちの方向には行かないようにしている。
澤さん:ほうー。
校長:そりゃね、ケガさせないようにとか待たせないようにとか、いろんな工夫が少し行きすぎてて、つまらなくしちゃってる面もあるけどね。ほんとはさ、棒倒しみたいにうわーっと走っていくとかさ。そういう残虐的な物って楽しいでしょ?
澤さん:やってて楽しいし、見ててもおもしろい。
校長:ワクワクするよね。でもそれはロードアートではさせられない(笑)残念だけど。
澤さん:たしかに。
校長:最短距離でいくずるさと、人としてずるい、他人に対してずるい、自分の身を守るためにずるいって。それもアンチテーゼで、国益って概念がないでしょう?省益だったりとか、小さいグループの中で損をしないようにっていうのと、もう少し広い目線で、全体で見た時にどうなのか?それがさ、全世界がとか、地球がとか言ったら、あまりにでかすぎて何も実体がなくなっちゃうから、国同士っていうのはちょうどいいと思うの。北海道がんばりましょうとかいうと小さい感じがするけど。
澤さん:なので国益?
校長:そう。いつも国益っていうの。そう考えていくと、「ずるい」って言葉のイメージはすぐ「卑怯」の方向になっちゃいがちだけど…それはね、藤原先生も「卑怯を教えよ」って言ってたんです。卑怯と最適解を探すことは別のことだし、卑怯ははずかしいことだと思う心を育てなければいけない、と。卑怯ってすごく漠然とした概念だけれど、明らかにあるでしょ?
澤さん:社会通念上、犯してはいけないルール違反をなしに、卑怯って話ですね。
校長:それはね、やっぱり文化の美意識。だって、美しくないでしょう?卑怯なことって。
澤さん:ああ、その通り!
校長:だから戦いでもスポーツでも何でもいいですけど、卑怯なことをして勝つってこととは違うじゃないですか。当然、美しく勝つことを目指すわけです。だからワシはラボの子たちにいつも言うんです。ずるさが足りないって。もしそれを理解できないとか、いいように勘違いするような子なら、えふでに来なくてよい。みんな大丈夫です、それなりに知性のある子たちなので。
澤さん:自分でできるかどうかは別として、整合性っていうのは、そこにのっかってて気持ちいいものだと思うので。こどもにわかってくれと言ってもなかなかわからないものだから、逆に気持ちいいのは、それをまわりで見ている親たちとか、ロードアートとかの大人たちなのかも知れない。

<この先の三十年を考える>

校長:野球のコーチと道路の仕事としてますけど、こどもの教育でこうあってほしいというものは何ですか?
澤さん:ああ、それだけはちょっと考えてきてて…ちょっと話が長くなっちゃうんですけど。…
我々が育ってきた三十年と、私の父親世代が育ってきた三十年とが大きく異なっていた以上に、もしかしたらここから先の三十年っていうのはたぶん全然違う社会構造になっていくんじゃないかと…いろんなことが起ころうとしているんですよね、あまり良い意味ではなくて…
例えば人口減少に関して言うと、人口問題研究所っていうところが人口推計っていうのをやっていて、それって相当な確率で当たるんですよ。天気予報より当たると言えばわかりやすいかもしれません。それは簡単な話、移民政策をとらない限り、今いる人がどのくらいこどもを産むかとか計算することで、三十年分くらいなんてあっという間に予測できちゃう。そうすると、財政の問題だったりとか、私の分野で言うといわゆる公共サービスみたいなのは、間違いなく低下していく。つまり今のこどもたちはそれを確実に百パーセント背負うんです。
その一方で、今のこどもたちはお店とかどこ行っても、サービスを受けて当たり前みたいに思うじゃないですか。親も、お金払うんだからって。それが、税金払ってるんだから公共サービス受けて当たり前みたいな感覚とかなり近くなっていると思うんです。しかしそのままの感覚で、次の世代が三十年後を迎えると、たぶん都市も地方も成り立たなくなってくる。お金はないのにサービスは求める。公共と市民の間に想像もできないような大きな溝ができる…っていうようなことは、かなり高い確率で起こるんじゃないかなと思っていて。
そうなった時に一人一人が考えなきゃいけないのは、「公民である」という感覚。こうした感覚が今より磨かれていなければいけないというのは絶対条件なんだと思うんです。その上で、さらに今の我々の世代よりもっともっとアイディアと行動力をもって変えていかなきゃいけないものがたくさん出てくる。そういう世界を私は想像しているわけです。だからせめて、こどもの頃に、社会を変えるだけのプロセスを経験しておくべきだと思う。そのために大人たちは一生懸命雑巾がけをして、こうやってやるんだぞ、って教えてやらなくちゃいけないんじゃないかなと漠然と思っています。
校長:うーん、なるほど。澤さんほんとにすばらしい。困ったことやできないことに直面した時に、それまでの知識や経験を総動員して、そのときにベストだと思える答えを導き出すっていうのは、えふでの基礎教育の目的でもあるんです。こどもたちには何せ力をつけてほしいですよね。特に北海道は冬期間の雪問題があるじゃないですか。
澤さん:そうですね、やっぱりそこも外せません。まずミニ情報として、百万人以上の都市で毎年六メートル級の雪が降る都市は、ここ札幌以外、世界で皆無なんですよ。そういう意味で札幌は奇跡の都市といえます。そういうところに暮らしている人たちなので、必ず雪と戦わなければいけない。それをやめたら、このまちを放棄してみんなが移住するしかなくなります。だからひとりひとりが戦っているという意識が必要だと思うんですよね。で、さっきも言ったように、今は公共サービスの除雪があるけれどそれは今後…という話になっていく。
校長:札幌は創意工夫のまちともいえる。マイナスの部分とプラスの部分は裏表だから。他との違いがないと、自分の価値観を発見できないでしょ。異なる概念があるから自分の立ち位置がわかる。
澤さん:その差分については、自分たちもよく言ってることなんですけど、人の幸せは変化量に等しい、と。要はね、幸せって、絶対値ではなくて、以前の状態との変化量な
んですよ。
校長:ああ、わかるわかる。そう聞くとやっぱり、大人がやっている冬のいろんな工夫、除雪とか砂撒きとか、どこかでこどもたちに伝えるきっかけをつくるのは良いことなのかも知れないね。なんか、みんなどっかで自動的にそうなってるって感じてる
んですよ。ほんとは夜中におっさんが除雪してくれてるのにね。サンタじゃないんだからって(笑)
澤さん:ほんとにね。サンタみたいな人がやってるわけですよ。雪はこの地域に住む人が勉強して行動していかなきゃいけないことのような気がします。札幌では毎年冬の間に千人近くの人がつるつる路面で滑って転んで救急車で運ばれているので、冬のロードアートをきっかけに、もしかしたら大けがをする人が減る…そんなことが起こったらとっても素敵ですよね。
校長:なんと、ロードアートが世の中のお役に立つ日が来るかもしれないと!ここまで好き放題にやってきたロードアートも、澤さん達みたいに、各界のいろんな優秀なひと達にめぐり会って、新しい展開になって来ました。なんかワクワクしますね。今年のロードアートも、みんなで、整然と好き放題やりましょう。来てね!

● 2013年12月 ごはんのネ申さま展

ごはんのネ申さまがいることは、みんなが知っています。それはこどもたちにとっては当たり前で、わざわざ説明するまでもないことだったりします。その「当たり前」の存在を言葉にして、形にしてみたら……。それはとても難しくて、とても楽しいことになるかもしれません。この展覧会では「ごはんのネ申さま」を、言葉や形、音や料理で表現します。豊かで複雑な味わいの、いろんなネ申さまが、会場にやってきます。

外国では「パンはネ申が与えてくれたもの」とか、「ワインはイエスの血」と言ったりしますが、ごはんの中に…というかごはんそのものをネ申さまとして考えるのは、日本人特有のもののように思えます。

「お米の中には7人のネ申さまがいる」とか「ごはんのひとつぶも残さないように気をつけてる」と聞き、へえ〜とちょっぴりこどもたちを見直してしまいました。さらに子どもの話をよくよく聞いてみると、お米だけではなく、料理や食材それぞれにもネ申さまがいるそうです。冷や奴やおひたしの中にも、それぞれネ申さまがいるよね。みそ汁や梅干しにもいそうだよね。そう聞いているうちに、なんというか日本の文化ってほんとうに特別なのかも知れない、と思いました。ごはん、お米…そういう食材そのものを大事にするだけではなく、餃子やピザなど、食べられる物すべてを神聖なものと考えたり、それらのネ申さまのイメージの中には料理をする作り手の感情のようなものまで入っていたり。こんな国って他にもあるのかな?

そのイマジネーションはどこから来るのかと考えてみると、もとはお父さんお母さんから言われたこと、おじいちゃんおばあちゃんから聞いたこと、本で読んだ民話や昔話、言い伝えや、学校で聞いたうわさ話…いろんなお話が自分の中で合わさっているようです。そんな中からも、子どもなりに納得できること、信じられることが昇華されて、ひとりひとりの「ものがたり」が出来上がっているのが伝わってくる。うーむ、これぞクリエイション。しみじみ考えさせられるのは、やはり創造って、何もないところから生まれているわけじゃないってこと。いろんな人から受け継いだもの、見たり聞いたり、五感で感じて、自分のなかにたまったものが、表現につながっているのです。甘いことだけじゃなく、酸っぱい、苦いも感じて自分に取り込むことが大事。いろんな刺激を受けて、いろんなことを考えて、矛盾やつじつま、整合性を考える中から、それは広がっていくようです。いやーその意味で、子どもって大人のことをよく見てるし、大人の言うことをよく聞いてるね。こういうものを文化と呼ぶのかもしれない。

さて「ごはんのネ申さま、いるよね?」という問いかけから始めた、ジュニアの『ごはんのネ申さま』の授業。今回の制作では、子どもの未分化のイマジネーション、そのかたまりみたいなものが垣間見えて、たいそう味わい深いものだと感じ入った次第なのである。実際のところ、そういう類いのプリミティブなイマジネーションみたいなものは、小学3年くらいからふわふわ消えていく、はかないもの。なかなか外に出すきっかけがないまま、大人になって忘れちゃうことも多いんだよね。

この冬に行う「ごはんのネ申さま」展では、現時点でのえふでっ子のイマジネーションと、リアルな工作能力との悪戦苦闘がまったり溶け合った、不思議な世界観をお見せすることができると思います。お楽しみに!

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● 2013年10月 キッズコースのプログラムと指導について

 今年度の後期10月から新しく水曜日にもキッズコースを開講します。一昨年あたりからキッズの「満席」状態が続いてしまい、入会をご希望の方々に、常に待っていただいている状態でした。水曜キッズクラスを増設することで、クラス変更や振替等も、これまでよりもしやすくなると思います。ご希望の際はぜひお知らせください。加えて席数は少ないのですが新たに入会の希望者を受け入れることが可能なクラスもあります。
 さて、おかげさまでまほうの絵ふではスタートから35年です。社会状況や、教育を取り巻く環境が大きく変わる中、えふでは小さなこどもたちの美術教育について、研究と実践をずっと続けてきました。幼稚園の先生がたや、他都府県からいらっしゃる美術教育関係者と話しをするなかでも、多くの方がえふでの授業内容を不思議がり、指導方針の質問を受けることも少なくありません。せっかくの機会ですので、我々がキッズコースのプログラム開発と指導面で考えていることを紹介したいと思います。

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こどもは変わったのか?
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漠然とですが、社会構造やテクノロジー(特に通信・IT系)のたいへん大きな変化のなか、本質的にはこどもは変わっていないのではないかとワシは感じています。逆説的な物言いになりますが、校長としてはこどもに与えた環境によって起き得る結果は、本質として変わっていないのではないかと思っているのです。いわゆる廃用性障害などという言い方がありますが、肉体的に使わない部位は廃れて行きます。こどもを取り巻く環境、我々おとなを取り巻く環境も…55年体制の終焉、ベルリンの壁崩壊、ゆとり教育を巡る混乱、震災…確かに大きく変わりました。が、何よりも影響が大きいのは、「不便の駆逐」と「物からデータへ」の流れではないかと思います。例えば、靴ひもを縛る不便さから、マジックテープなどへの変化は理にかなっているのかもしれません。が、こと教育の観点で言うならば不可逆的に「できないことを増やす」流れであると思います。またデータ化や映像情報のやり取りが圧倒的に便利になったことで、失う身体的な感覚もまた不可逆的に感受性の退化へと繋がります。この点については異論もおありかと思いますが、知人の映像作家が「映像の高画質化は知っているという錯覚を起こさせるが、暑さ寒さと臭いは映像では伝えられない。画像の荒さがリアリティを生むことすらある」と言っていたことを示すにとどめておくことにします。テレビなどで見ただけのものを知っていると感じる錯覚はこどもからあこがれを奪い、やがて知の欲求を消滅させることでしょう。

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えふではアートを通した教育を行う場
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 そんな中、まほうの絵ふではどうあるべきか。ややこしくて恐縮ですが「美術教育」について言うならば、自我の形成との関連で、経験的にほぼ14歳以降でなければ専門的な美術教育が機能しません。その意味でえふでのキッズやジュニアでの授業は「絵や造形を通した教育」つまり「アートの教育ではなく、アートを通した教育」であると位置付けることができます。ですから世に存在する様々な美術教育機関で、2~3歳から受講可能なところもありますが、えふでは、これまでの経験から4歳年中からの受講にこだわっています。(初期のえふでは4歳から入会可能でしたが、ワシの代から4歳以上かつ年中さんからにしました)もちろん個人差もありますが、こどもが自分のこと以外に、他者のことも意識し、ある種の社会性を持つためには、現実的に年中さんくらいの生活の経験値が欲しいところです。キッズに対して行っている授業は、アートを通した教育として、アートに関する活動をする場であり、集団教育の形体をとっていることも、他の学校やスクール、スポーツの少年団等と変わりがありません。ルールや成り立ちを理解した上で、人間関係の面でも社会性を学ぶことが必要だと考えているのです。他のスクールで2歳3歳であれば、親御さんと一緒の受講(親を通した教育?)であったり、ぐるぐる描き、バチバチ描き(専門用語でいうところのスクリーブル)、紙をびりびり破いたり、絵の具をこねて手で描いたり…など情動をそのまま外に出すことがめあてになることが多いのですが、えふで校長としてはそれはアートを通した教育というより、保育の領域であると考えているため、アートスクールとしてのまほうの絵ふでがそこに加わることはありません。

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こどもは小さい人
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「こどもは(無条件に)かわいい」「こどもは無邪気、素直」「こどもの感情の爆発こそ重要」…というステレオタイプな見方をワシが校長としてすることはありません。もちろんこどもはかわいらしさを持っていますが、教育として、こどもに「できるようになる」ことを求めるためには「どこまでできているか」を冷静に見る必要があります。えふではその関係を、大人と同じように「人対人」の関係、コミュニケーションだと考えています。生まれてからの時間が短く、経験が少ない人間(ひと)として、キッズには複雑なこと、複層的なことはできません。しかし本質的なことを飲み込む力には優れています。だからこそキッズの授業は要素を削ぎ落としたシンプルなものにしているのです。実は要素としては同じことを年長者であるジュニア(小3~小4)にもラボ(中学生~高2)にも延々伝えています。極端に言えば、まれに同じモチーフを違うねらいで描かせることすらあります。もちろんキッズに対しては興味の入り口としての、知る喜び、できるようになる喜びを重要視していますが、制作を通して考えて欲しいのは、なぜそうなっているのか?という知的好奇心、思考の筋道で、そこを大事にしています。

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思考のすじみち
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校長がこどもに向き合うときまず念頭においているのは、「絶対的な正しさはない」「何が正義なのかすぐに答えは出せない」ということです。校長は美術の作家として「正しさ」「美しさ」を探していますが、それはもしかしたら錯覚なのかもしれないと、常に畏れを持つべきと考えています。ですからそのようなことを押し付けるのではなく、あくまでプラクティカルなこと、現実的、技術的なことをベースに伝えています。こどもが制作に取り組む様子を見ていると、それぞれの思考の道筋や癖、傾向のようなものが見え、その切り口が作品として残ります。よくお伝えすることですが、特にキッズは大人が思うほど自作にこだわりがないことすらあります。
 ですから作品は、こどもの思考のすじみちの記録として、親御さんが年度ごとの保管をしてあげるようにしてください。大人になったとき、大人になりつつあるときに自分のことを深く考えるきっかけになります。4歳のときに6歳児のような絵を描かせるのがえふでの目的ではないですし、20歳のとき22歳のような絵を描くことの無意味さは言うまでもないことだと思います。そうした本質に繋がる制作を重ねつつ長い時間を過ごす中で、自分に対する理解、本質的な思考が可能になり、その結果多くの人と深く共感することができるようになるのです。

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個性を伸ばすとは?
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はっきり言います。えふでが個性を伸ばすことはできません。もっと正確に言うと個性を教育で伸ばすこと自体ができないのではないかと校長は考えています。また、世の中に多く信じられているように思える「個性は傷付けないように守ってやらないと壊れてしまう」という考えには賛同できません。タマネギみたいに剥いて剥いて剥いて…最後の最後に残るのか残らないのか分からないようなものが「個性」の本質だとワシは思います。彫刻家の佐藤忠良先生がおっしゃった『路傍の石ころを見ながら、そのそばを何万回通っても、ああ石ころだなと思っている人と、1回通っただけなのに、石ころに自分を投影できる目と心の訓練の違い』そういう真摯な想いのないところで『自由に好きなように、と言いながら、しまいには足や手で絵の具を掻き回したような教育』でしっかりとした思いと謙虚さをもって美に思いを馳せる人物が生まれるとは思えません。我々が今必要としているのは献身的な『知識と人格の統一』があるひとなのではないでしょうか。

今回のオリンピック開催地の選考でワシが考えたのは、まだまだ世界中でそれぞれ様々な問題を抱えているということ。やはり日本は、世界中から問題解決の新たな指針づくりについて「日本なら何とかしちゃうんじゃないか?」…実は本当にあり得ないほど期待されている、そんな印象を持ちました。今回のこの決定は、キッズのこどもたちにじわじわと日本に対する誇りを与えてくれるような気がしています。まほうの絵ふではそんなこれからの期待を背負うキッズたちの授業について、さらに柔らかさと厳しさを併せ持ち、内面からの自発的な努力を促すものにしていきたいと考えています。

● 2013年9月 ロードアートRoccaRials リベンジしたぜ!

リベンジは快晴!

 夏休み前、みなさん大量のてるてる坊主を作ってくれてたおかげでしょうか。夏のロードアートは朝から快晴!暑い一日でしたね。今回は、小さなこどもたちが「じゃんけん列車」でつながり、巨大RoccaRailsの上を歩くというロードアート。送迎や見学のお父さん・お母さんたちもおつかれさまでした!
 まほうの絵ふでのロードアートには、毎回たくさんの大人たちが様々な形で協力してくれています。やはり皆さんの目にはあんまり触れない準備や作業もたくさんあるのです。また、下は4歳から上は17歳まで、様々な年齢のこどもたちがひとつの場に集まると、まわりから期待される役割もそれぞれで違います。
 道路で走り回っていた小さなこどもたちの仕事は「遊ぶこと」。暑い中それはそれでたいへんなことなんですよ。逆に一番年上のラボの中高生たちは、大人のスタッフと一緒に裏方仕事で大いに活躍してくれていました。

 自称「こどもにきびしく、大人にやさしく!」がモットーの校長ですが、実はキッズよりもジュニア、ジュニアよりもラボに、どんどん厳しくなっていきます。まずキッズのこどもたちに期待するのはやはり「みんなに愛されること」。楽しむこと、できると思うことが一番だと思っているのであります。危ないことや秩序を守らないことに関してはキッズといえども厳しいけどね。  ジュニアの小学生には「しっかりやれよ!」自分が楽しむだけではなく、キッズのこどもたちも一緒にできるよう見てあげるのも、人との関係や仕組みを考えられるジュニアの学年になればできること。実際、今回のようにルールが複雑なゲームを支えたのは、ジュニアのこどもたちのがんばりが大きなカギになっていたと思います。さらに小学校高学年にもなれば、大人のクリエイターやスタッフのみなさんに、感謝やあこがれの気持ちを忘れないことも大切なことのひとつです。

 さて、ラボの中高生の場合は…いきなり校長に「バカもん!」と叱られるのであります。あんまり大きな声で叱っていたので、道行く方たちの中にはびっくりした人もいるかもしれぬ。今回はたくさんのラボの中高生たちが準備から裏方の運営サポートまで参加してくれていたのですが、ほぼ全員に大人のスタッフの側に立った目線で動くことを要求しました。限られた時間のなかで道路を占有して行うロードアートの現場は、はっきり言って時間とクオリティとの戦いです。ふだんの教室での制作とはちがい、ひとりひとりの仕事が全体に影響することだってあり得る話。ロードアートはラボの生徒にとっても、大人のスタッフにもまれ学ぶチャンスといえます。

 こういう機会があるたびに、校長はラボの生徒たちをずいぶん叱り飛ばしているのでありますが、まわりの方たちにも、よくそこまで思いっきり叱れるもんだという顔をされることもしばしば。実は同じ「バカもん!」でも、相手によって叱り方を変えているのです。今年のラボがおおむねよい動きをしたという結果を踏まえて、ちょっとだけその辺を明かして解説してみることにしよう。(ホントはナイショだがね。)

校長の「バカもん!」の次にくる言葉は…?

 例えば知性があり、なかなか賢いところはあるんだが、何せ思考のスピードが遅いというタイプが相手の場合には。正直、時間の制約がある現場ではなかなか困るタイプです。こういう生徒には「バカもん!」のあとに、必ず理由を端的に言うようにしています。「それをすると後からこう困るであろ!だからあっちの方法だ!」納得するまでに時間がかかるので、逆にあえて急がせて動きを止めないように叱り、同時に理由も伝えながら具体的な指示を出していきます。逆に思考が早く、打てば響く賢いタイプには「バカもん!お前のやろうとしていることはこういう結果につながるぞ!」ここまでで終わらせます。あとは自分で考えろ、という余地を残しておく方が、こういうタイプには良いのです。さらに反応のスピードは早いが、なにかと早とちりが多い生徒には…「バカもん!あっちだろ!」シンプルに指示を出してしまいます。あれこれ理由をつけたり要素を複雑にすると、考え込みすぎて余計に混乱しがち。ひたすら経験させ、理由は家に帰ってから自分で考えろ、というスタイルです。さらに、照れや自意識が強くてなかなか素直に動けない生徒(年齢的に中高生によく見られる)には、あえて責任を持たせる仕事をまかせることも。もちろん、本人のペースではなく、現場の都合優先で。そういう生徒には「バカもん!」「早くしろ!」の言葉が、理不尽と受け取られても良いのです。ワシが無理矢理やらせているということをそのまま認め、四の五の言わずに全体のためワシに従え、とはっきり叱って言うのである。

 ここまで書いたので正直に言いますと、どんなにアホだってよいのです。失敗も、ある意味しょうがない。しかしロードアートのような現場では、いちいち落ち込むヒマすら与えられない。そこが良いのです。近くにいる者が、体当たりで問題を解決するしかない。こう言うと批判もあろうかと思いますが、人間は本来「自我を抑えて全体のために努力する」ことが嫌いじゃない生き物だと思うのです。つーか、そういう縛りってほのかに楽しかったり、やりがいに繋がったするのが不思議なところ。特に日本人はね。

 …そんなこんなで、ワシはラボの生徒を積極的に叱ります。その想いはひとつ。自主的に考え、自分のなすべきことを実行できる人材になるチャンスだから。躊躇して思考停止、迷って立ち止まる…ええ、ワシは言います「バカ!」経験値を総動員しつつ頭はフル回転で、とにかく動かなきゃいけない。だからこそ「お前がやれ!」ちょっと無理難題ながら、その経験があって初めて、コイツならやってくれそう…という雰囲気が身についていくのだと思うんです。

 えふでのアートラボはただの「絵がうまい集団」ではないぞ。打たれ強く、他人にあてにされる人になれ!