絵筆新聞
2012年1月 こども³展 終了しました
おかげさまで「こども³展」無事終了しました。今回のテーマは、「ありのままにこどもを見る」。えふで的に直球勝負である「こども」をテーマにしながらも、小林三旅さん、服部貴康さん、そしてワシらまほうの絵ふで、三者の問題意識や毒っ気も踏まえ、こどもの純粋・天真爛漫・夢・未来…というイメージから離れて、あるがままのこどもの姿、認識や興味などをむき出しのままで見つめる展覧会にしようと企画しました。で、会場に入るといきなり三旅さん作成の大画面。フレンチさんのノイジーな音楽にのせたこどもムービーに始まり、服部さんの写真にえふでっ子の自画像、そしてこどもインタビュー…それぞれから醸し出される、微妙にハードで醒めた雰囲気に来場された方もとまどったのではないでしょうか?しかし…今回改めて思いましたが三旅さんの映像、服部さんの写真ともに本当に素晴らしかった。これを更なるきっかけにしてこの二人とは映像や写真関係のことも含め今後もいろいろやる予定。三旅さんはもうすでに「教頭」なんて呼ばれてます。そして服部写真館…本当にやってよかった!なんかね撮られる側の家族写真の幸せ感がしみじみよかった。えふで自画像は…標本みたいな展示だったかな?うーむ、こども展はNYのMoMAとかで見てみたいね。…巡回する?
2012年1月 こども³展 こどもさんじょうてん
こどもの定義ってなんだろう。未成年?体が小さいからこども?親に養ってもらうのはこども?「こども」という言葉は、案外あいまいなものだと思います。
ワシらはずいぶん長いこと「こども」と接してきたけれども、まだまだ答えは出ないのです。そこにいるおじさんだって、自分のおかあさんの前ではこどもだし、こどもといえども大人の大会に出て大活躍する小中学生だってたくさんいる。少なくともこどもの能力が大人に劣るというわけではなさそうだ。こどものくせに…なんて思っても、ワシ自身お金のことなんぞいまだにしくみがよく分かっとらんし、死ぬことについてもよくわからん。しかし好みや価値観とか、今の自分へとつながる思考のほとんどは、十四歳くらいのときに考えたことのような気がしている。…ということは、えふでのこどもたちも今考えていることが、そのまま未来につながっているのかも。
そこで映像作家の小林三旅さんが、小学生のこどもたちとじっくり向き合うインタビューを試みました。ステレオタイプなイメージから一歩踏み込んで、頭の中に入り込んでみると…実際どうなの、「こどもらしさ」って何!
今回の映像展示のメインはインタビュー。小2から小6まで、6人の子供達のお家にわし小林三旅が伺って話を聞いて来ました。どの家にもえふでで作った作品が大事に飾ってあって同行した松本先生の感激もひとしおの様子でした。家のインテリア率が高かったのは4月に作った「くもっくも」だった!
で、肝心のインタビューのために選んだテーマはそれぞれちょっとハードな問題だ。どれもこれから生きていくうちにきっと悩んだり考えたりしなければならないこと。
どんな答えが返ってくるのか事前にスタッフ同士で予行練習したら自分が答えにつまってしまいました。どの話題もわしはまだ未解決だな。

インタビューのトップバッターは小6のあきらくん。東京育ちのわしにとって北国の家にも興味津々。でかくて広い!うらやましいぞ。
テーマは神様について。世間的には、学校で合掌していただきますと言うと「宗教的に偏ってる」とクレームが来る時代らしいけど、こころの問題を考えるとき宗教は今も様々なヒントをくれる存在だと思う。難しいと思いつつも、あきらくんに「神様っていると思う?」直球で聞くと、予想外にもいます!とズバリと返ってきました。その後の話は頭の中に広がるゴッドワールド。うなりました。信仰を持つって良い事だと素直に思いました。わしもあきらくんの神様欲しいぞ!

お次は小4ののりくん。お金って存在がどんなものか理解はしていても、あまり興味なはい様子。最初にのりくんが大事にしている宝物が幾らぐらいの価値があるのか聞いてみました。持って来たのは長年愛用のぬいぐるみ二つ。その値段のつけ方を聞いているうちに、お金ってただのルールなんだと改めて気づかされました。それぞれ物には必ず価値があるけど、実は同じ価値を共有してないんです。本来バラバラだからルールが必要。アメリカでは高校生になると経済の授業があるそうです。日本でもそうゆうの必要だよね。

ともくん。立派な個室がうらやましい。スポーツも得意でスキーや野球のグッズが所狭しとならんでました。文武両道で将来モテそうだな。ともくんには生命、生と死について聞いてみた。まず、話が噛み合なかったのは「生きている」ということについてだ。「生きる」ってことを考えるのは実はとても抽象的なことなんだな。なので、死についてどんな感覚を持っているのかに集中することにした。最近の身近な出来事、おじいさんの葬式のことを聞くとその時の印象は「蚊がたくさんいた」とのこと。うーん。やっぱり難しいのかな。でも、さらにねばって聞いてみると突然、ともくんに大きな変化が表れました。この様子は展示で見て下さい。

小3のゆうまくん。こんなご時世なので日本のこと世界のことを聞いてみようと思った。最近の大事件について質問したら、特に思い当たらないと。北海道は平和でよかったね!テレビで流れるニュースも自分と関わりを実感するのって実際は難しいんだよね。でもあれこれ探ると「まんが日本の歴史」を最近読んでいたこと発覚。で、日本の歴史について、「争いが多いなあ」。ほんと歴史ってほとんど争いごとの記録だよね。なので、ゆうまくんにはなぜ戦争がなくならないのか、あえて聞いてみることにしたのでした。

山の麓にあるさきちゃんちは森に囲まれていい雰囲気。お父さんが建築家ということで、シンプルでかつひろびろとした、吹抜けの2階建ての贅沢なお宅。2階にある備え付けの長いテーブルにお父さんと並んでさきちゃんの席がありました。子供って大人より男子と女子の壁ってあったような気がする。こうゆうのホント不思議。でも、さきちゃんは他の子と違って男の子の遊びにも平気で入ってるとのこと。女の子らしいものはあまり好きではないようだ。それから色の話になって赤は女で青が男のイメージって、なんでそう思ってるんだろって流れに。当たり前に思ってることが次々に解体されていくぞ。

たまきちゃんは本番に強いタイプだそう。インタビューもはきはきと話していたぞ。その場の雰囲気に敏感なようで、気持ちのいい場所だとさらにパワーアップ。そろばんの選手権で全国大会で優勝したときはその場所が楽しくていつもよりも集中できたそうだ。「好み」や「興味」ってのも自然に備わってくるから不思議だ。たまきちゃん、今なぜか、ある身近なものについてのこだわりが強いようで、その熱い思いを聞かせてもらったぞ。また逆に「嫌い」「つらい」ことについてどう思うかと聞くとこれもしっかりとした答えが。うむ、確かに本番に強いかも。
いろいろヒヤヒヤしたけど、インタビューで子供の「頭の中を覗く」という作業は一応うまく行ったと思う。普段、子供は、学校では「教わる側の」生徒として、両親と話すときは「保護されている」息子、娘として大人と関係していて、ある種の上下関係の中で生きている。だから、今回のようにしがらみのない「ただのひと」と話し合うことは、子供にとってとても新鮮に感じたんじゃないかな。難しい質問に対して一生懸命考えて話してくれたことはきっとこの後何か役に立つと思う。
是非展覧会に足を運んでいただき、わかりやすい言葉ではないけれど、本気で悩んでる表情や、含蓄のあるフレーズに触れて子供たちのまっすぐな世界観に触れてほしいです。
2011年12月 こども³展
まほうの絵ふでが贈る2012年冬の展覧会「こども³展」。 こども³と書いて「こども参上」と読みます。自由のびのび大反対!という、泣く子も黙る全国指折のいかれたアートスクールとタッグを組むのは、ご存知「写真家の服部貴康」さんと「映像ディレクターの小林三旅」さん。子どもについて真正面から考えて、先入観や、過度の期待、神格化や理想像などなど…子どもについてのありきたりのイメージを一枚いちまい剥いでみようではないかという試み。ドキュメンタリーの世界で活躍するふたりが、今後の我々にどんなヒントを与えてくれるのか乞うご期待!
<展覧会に向けて 小林三旅さんからのメッセージ>
えふでの先生は、子供を子供扱いしないというか、それぞれの先生の感性に照らし、上手い下手ではなく、何かそれぞれの人としての力を認めるような、そんな評価を子供たちの作品にしているように思います。
「人としての力」は「個性」とも言い換えられるのかもしれませんが、個性という言葉が併せ持つ放任的なものとも違う、教育者としてのしっかりとした基準をそこに感じます。子供と大人を別の人種ととらえず、お互いの関係がよどみなく流れつながっているのは、子供は身体的に成長の過程にある未成熟な人間である、という当然のことを先生たちが現場ならではの肌感覚で知っているからではないでしょうか。
「こども」という言葉は、実は、とても曖昧に使われて続けていると思います。
自分の内面を見つめても、どこまでの時期が子供で、いつからか大人なのか、まったく判断がつきません。よく考えるとそんな簡単に自分の中で分別されるものではないでしょう。「こども」はかつての自分そのものであり「こどもらしさ」というのは失われるものではなく、いつの間にか人の中で眠らせてしまうものなのだと思います。そして、大人になった私は子供の私をすっかり忘れ、まるでそんな時期がなかったかのように子供について考えることはなくなります。大人になると先生や保育士にでもならないかぎり、日常の行動の中に子供はなかなか登場しませんし、例え親になったとしても、子供といえば自分の「子」であり、広く「こども」を見つめる機会は相変わらず多くはありません。
このところ、何度かえふでのイベントに参加させていただき、いまどきの多くの子供に接して思ったことは、自分の中で「こども」というものを、こうゆうもんでしょ、的な抽象的な存在にしていたということです。イベントや授業で接した子供たちは、私にあった抽象的な存在以上にとても賢くて、自分の考えもしっかり話すことができ、ひるむ事無く大人と接していました。なんだか自分の頃の「こども」とずいぶんと違うような気がしたのです。私は団塊ジュニア世代でつめこみ教育ど真ん中、ひどく窮屈だった思い出があるからでしょうか。それともただバカだっただけなのか。
そんなえふででの体験から、今回の企画で、肌感覚の子供像というものを自分なりに確かめてみたいと思うようになりました。
私は映像の仕事、特にドキュメンタリーを中心に活動しているので、インタビューという手法で子供に入りこみたいと考えます。インタビューは受ける人の考えを両者で引き出していく作業です。大人でもこうしたやりとりできちんとした発言をすることは難しいのですが、今回はあえて子供たちに、生命や人生にまつわる様々な根源的な問いかけをしてみたいと思います。実際そうした問いかけに答えがあるはずはないのですが、子供と大人の間にあるぼんやりとした壁を越えて共有できる言葉が見つかったとき、「おとな」にとって「こども」とは自分の一部であり、目の前にいる子供たちを、成長の差はそれとして認めつつ、対等な人間であることに変わりないことに気づかせてくれるのではないかと思っています。
<展覧会に向けて 服部貴康さんからのメッセージ>
「こども」とは、とあらためて考えてみるとあんがい難しい。結婚もせず、「こども」のいない僕にとって「こども」のことを考えてみる材料は「自分がこどもだった頃」を思い出してみるか、または、自分が出会った「こども」について思いを巡らせてみることくらいしかできません。
「自分がこどもだった頃」について思い出すのは、小学校5年生あたりのことでしょうか。へたくそだったけど少年野球をやっていました。監督は明らかにへたくそで戦力にならなかった僕を「ライトで9番」で使ってくれていました。今考えてもなぜ試合に出られていたのかわからないのですが、内野ゴロのたびにファーストの後ろまでカバーのために走っていました。僕にとって野球の試合とは、ただひたすらにライトからファースト後方までの往復を意味していました。そして少なくとも「この行為が自分の人生にとってどんな意味があるか」とか「自分のやっていることが社会に対しどんな影響があるか」など、今なら考えそうなことは、あまり深く考えていなかった気がします。
それ以外だと、生まれた町が金魚の産地だったので、近所にいくつも金魚の養殖池があり、朝から晩までトンボやザリガニ穫りをして過ごしていたことでしょうか。それより前の記憶は、本当にもう断片的にしか浮かんできません。少なくとも本人にとって「こども」とは「大人」になると忘れてしまう記憶や経験の集積でしかないのかもしれません。そう考えるとなんだか切ないものですね。
気がつくと「こども」の写真をたくさん撮ってきました。たとえばルーマニアやアルバニア、アイルランドやインドなどカメラを持って観光客も来ないような田舎町をうろうろと歩き回っていると、数分後には僕の後ろに見る見るうちに子供たちの行列ができ、「ハーメルンの笛吹き男」状態となります。まったく一文字たりとも言語を共有できない他者、つまり外国で出会った「こども」たちとの「言葉なき対話」を、僕は数え切れないほど経験してきています。
そこから得た僕なりの身体感覚的な「こども」観があるにはあるのですが、「こども」は、世界中のどこへ行っても変わらない存在なのかもしれないし、やっぱり風土や歴史に否応なく影響を受けている独自の存在なのかもしれません。
そういえば沖縄に住む友人の「こども」を、生まれてから10年くらいずっと写真に撮っています。家族ではない人間が、一人の「こども」を記録していくのはちょっと面白いのではと思っているのですが、彼女はいつから「こども」でなくなるのでしょうか。今回の企画で「こどもとはなにか?」とあれこれ考えを巡らせてみているのですが、鈍感な僕は、彼女が「大人」になる瞬間を見逃しそうな気がしてなりません。
2011年10月 見えてるようにしか描けません。 描けてるようにしか見えていません。
日本でも屈指のいかれたアートスクールまほうの絵ふでですが、前期の作品返却。作品をご覧になっていかがでしたか?子どもの作品を見ると、描くことを重ねて認識が深まっていく様子が垣間見えて非常に興味深い。また、こうやってまとまった作品を時系列的に見ると、子どもの認識の変化についてしみじみ考えさせられます。本当に貴重ですよね。
加えて返却作品とともにお渡ししたお手紙「どんなことをしていましたか」ご協力ありがとうございました。ぞくぞくとお返事が返ってきました。いやー、おもしろかったですね。これは1925年から2012年へと続く年表式のスケールが描いてあるもので、お父さんお母さん、そして子どもたちがいつ頃、何に夢中になっていたかを思い出して書き綴っててもらうというもの。その気になればおじいちゃんおばあちゃんの分まで書けるという長いスパンのスケールでした。
いろんな年表がありました。ざっくりしていて面白いもの、小さな字でみっちり書いてあって家族の年表になっているもの…プチ事件簿みたいなものとか、あ、新聞食べちゃったとかね。すごかった。しみじみ思ったんですが、みなさんいろんなものに熱中してたんですね…えふでっ子は面白い子ばっかりだけど、親もすごいわ!まー言うなれば結果とその理由みたいなもんですね。お父さんお母さんの興味や趣味、ひいては美意識っていうものが、こうして子どもに受け継がれていくんだなあと。家族ってすごいですね。ちと感慨深いものがありました。いただいたたくさんのお手紙を拝見しての校長総括のひとことは…「ひとに歴史あり」ぞな。
さてさて、この時期作品を見直しつつ校長がいつも思うのは、絵画ってすごいなーということ。やはり絵画は知性の産物であるのです。刻々と変化する理解と認識、そして身体性がセットになって、結果として作品のかたちに残される。見えたものを描いていながら、見ることを通して何を感じたのかが立ち上がってくる。その子にどう見えたかが現れてくる。つまりその子がその題材をどう認識したのかを、絵を通じて共有することができるのです。
想像画は何を考えたのかが分かりやすいと思われる方が多いと思いますが、実のところはモチーフなどを見て描いた絵の方が、その子の認識が分かって興味深いのです。絵というものは見えたように(もしくは認識したように)しか描くことができませんし、同時に描けているようにしか見えていない。絵を描く上では技術的なことが大きく影響するように思いがちですが、実はこころの問題が大きいのです。視覚って学習がないと成り立たちません。ですから作品には観察できている深さ、到達点が示されています。見ているものが見えているものだという訳ではないんです。これは授業の中でもいつも言うんですけれど、みんな自分の信じてるものを見てるわけであって、見たものを信じようという努力は絶対といっていいほどしていないんですよね。
さて、こういった書き方をすると、違和感をお感じになる方もおられると思います。そんなに難しく考えなくても…とか。しかしここであえて聞き返したい。絵ってのびのび自由なだけのものなんでしょうか?と。特に子どもの絵は「自由・のびのび・いいかげん。」であるほうが好まれるようです。(…あれ?最後のは違いましたね。最近は自由・のびのびと言う代わりに「わくわく、いきいき、にこにこ」と言うのが流行なのだそうです。)しかし、絵を描くこと、美術を通して学ぶことの本質は全然そんなことではないのです。校長の考えていることにすごく近いことを、物理学の権威でありながら音楽家をされていらっしゃる伊東乾(いとうけん)先生がこうおっしゃっています。
「よく言う事ですが学校で美術を教えるのは何もアーチストや画家、絵の上手い子を育てるのが目的でなく世界の見方を教えるのが本当は一番大事、音楽も体育も同様で世界への耳の済ませ方、世界とのからだの関わりあい方を教える、そういう場がもっとあるほうが、人間らしい毎日が送れる気がするのだけれど」もちろん絵の大事な要素としてファンタジーもありますから、そこをもっと重視したほうがいいのではないか…という意見も承知しています。うーむ、そこも踏まえた上であえて大げさに書きますが、子どもの絵画は自己認識のための闘いです。同時に自己をとりまく世界に対しての世界観をどう組み立て、どう捉えていくかという自己確認のシミュレーションであるとも言えます。それは子どものぐちゃぐちゃのお絵描きの中にさえ確実に存在します。つまり子どもが世界をどう見ているかが絵に現れるのだと思います。
また実際に絵の変化は認識や認知力の発達、身体の発育とリンクしています。タマゴが先かニワトリが先なのか…議論は数あれど、基本的には認識が技術に先行します。校長は子どもたちに楽しく制作に関わってもらいたいという気持ちを否定するつもりはまったくありません。しかしその楽しさにも二通りあるような気がしてなりません。うっきゃーという喜び組?喜び爆発系。子どもらしさと言うとき、たいがいのひとが思い浮かべるのはこちらの方でしょう。で、もうひとつは熱中系。ご飯に呼んでも気づかない。顔を真っ赤にして一言もしゃべらない。倒れるまで、おしっこもらしちゃうまでやっちゃう。口は半開きでよだれが出てる…。校長はおもらし・よだれ派を支持します。
ある程度の学年からは「こう見えてるはずがない」っていうことに対してがんばれるかどうかは、たいへん大きな壁です。われわれは何かを間違えるとき、何かが違うと深いところでは気づいてるにもかかわらず、知性でふたをしてしまうことがままあります。おもらしし、よだれをたらしながら、あるべき姿を、あるがままに見る。美術はそんなちからを育て、こころの強さを育ててくれるものなのだと思います。べつにたらさなくてもいいけど。さて、11月は各年齢の子どもが同じものをどう認識するか違いに注目!
2011年10月 アートを通した教育にどんなみらいがあるだろう
「わだばグロピウスになる!」「子どものためのバウハウスを!」
…って唐突でしたが、えふでがこの後どこへ進むべきかを考えるとき、常に頭に浮かぶのは、かのバウハウスであり、ベネトンの研究所ともいうべきファブリカであり、ユーフラテスをはじめとする佐藤雅彦研究室の関係機関です。
もちろんえふでは子どもを対象としたアートスクールですから、それらの研究施設と同じように専門家の育成や、社会に表現そのものを投げかけるという方向だけに進むべきではないと感じています。しかしそこに共通している、「理解」や「表現」について根源から真摯に考える場であるという点は、最大限に参考にすべきだと思っています。
本来、美術に必要なのは人類に対しクリエイティブがどう応えていけるかというビジョンです。その意味で美術教育は面白いものをつくる・個性的なものをつくるということがねらいなのではなく、あるべき理想の姿を模索する中で、新たな表現方法やコミュニケーションの方法を問い直すものであるべきです。で、「子どものためのバウハウスをやりたい!」なんていうと、子どものアートの教育にすごく燃えてるんだとみなさん思われるでしょうが…ちょっと違うんです。えふでが考えているのは、究極には教える側の研究であり、実験ともいえるのです。結局何をするの?という方もいらっしゃると思いますので、参考として2002年にノーベル科学賞を受賞した田中耕一先生(島津製作所・田中耕一記念質量分析研究所長)のインタビューを引用します。長いですが、教育について重要なサジェスチョンがありますので、子どもたちの、そしてわれわれ大人がどうあるべきなのかぜひ一緒に考えましょう。
今までの日本というのは不良品を絶対に出してはいけない、失敗することは絶対に駄目ということでやってきた。それが日本の製品の信頼性の高さにつながり、特にアジアの方々からは非常に高く評価されている。これ自体もまだまだ伸ばす必要はあるが、今、日本というのは世界の最先端を走れる部分がたくさん出てきた。だから、これからの日本というのはだれも試したことのないことに挑戦し、あるいは独創を育むことが必要ではないか。そのためにたとえ失敗してもいい、それが新しいことにつながればいい、という感覚で取り組まなければならないと思う。大人はよく子どもに「夢を持たなければならない」という。そこまで大人が仕向ける必要があるだろうか。私自身、別にこうしたいという夢を持っていたわけではない。会社には悪いが、どちらかというと好奇心と、何かに貢献したいという実に漠然とした、かつ人の生きる根幹にかかわる思いしか持っていなかった。「夢を持たなければならない」と言わせているのは今の大人ではないか。「私たちは失敗した…。今の日本はこんなていたらくだ。子どもたちには夢を持って前に進んでほしい。」と。何かみんなが子どもたちに重い重い期待をかけ過ぎているのではないか、という気がする。しかし、実は私と同時にノーベル化学賞を受賞されたジョン・フェン先生はついこの前亡くなられたが、この方は60歳を過ぎて、新しいことを発明された。別に若いからできる、年をとったからできないというものではないと思う。今の例えば30代、40代、50代、あるいは60代でも70代でもいい。私自身に対しての叱咤(しった)激励でもあるが、もう少し自分たちでできることをやりなさい。日本というのはまだまだできることがたくさんある、と大人に対してもメッセージを送りたい。
(「日本にできることはたくさんある」サイエンスポータル より後半部抜粋)
ロードアートなどを見ていてもお分かりのように、えふでの活動は子どもだけではなく、大人も必死にがんばる場です。国内でも一流のクリエイターたちが、子どもとともに新たな表現を考える場。それをひとつの理想と考えます。数学者の藤原正彦先生がおっしゃっているのですが、学問は(数学のように?)役に立たないものほど尊い。先生曰く「ケンブリッジ大学でも、つい近年までは工学部というのはなかったんですよ。すぐに役に立っちゃうから。そういうものは学問と見なさないんですね。」その500年くらい経てば人類の役に立つのかも知れない…というようなものをどのように価値判断するかというと、主に美しいかどうかなのだそうです。
すごいクリエイターといえども、子どもと一緒に新たな価値観について考えるためには、物事を極限まで分析し、シンプルなところまで要素を削ぎ落すという作業が要求されます。その過程で新たに見つかることも多いでしょうし、子どもたちは常に新鮮な気持ちで大人と対面し、表現の可能性を発見することができます。面白いものをつくる、個性的なものをつくるということがねらいなのではなく、理想の姿を模索する中で、新たな表現方法やコミュニケーションの方法を問い直していきたい。今回のロードアートでの子ども撮影班の取り組みについて小林三旅さんのレポートにもあるように、新たな表現が新たな価値観を拓いてくれる…これからのアートを通した教育には、そんな可能性を感じています。
2011年9月 驚きの作品が誕生!映画かめのなみだ
ロードアートにご参加のみなさん、おつかれさまでした。校長は…一足先に永田琴監督の作った「かめのなみだ the MOVIE」仮編集バージョンを見ました!すごい!映画としてのクオリティーとかメッセージとか言う前に、もうめちゃくちゃ異質!あんな映像どこにもない!この世で見たことのない、ある意味衝撃的な作品です。なんか途中、あまりの不条理感に大爆笑したりもしてしまいましたが…同時にタートルズの本気の真剣さ・一所懸命さに心うたれるところもあり、泣いていいんだか、笑っていいんだか…とにかく一度見た人には忘れられない摩訶不思議な映像なのは間違いありません。ロードアートを映画というかたちで完成させることで、参加した人の努力が残せて本当によかったと思います。
いろいろいたらなかった点、気になった点もおありかと存じますが、あの炎天下の中、まずは予定どおりふたつの大きな絵を塗って、すべてきれいに消せたことを素直に喜びたいと思います。途中で迷子も出ましたが無事父母と再会できましたし、今年は校長、おまわりさんに叱られなかったよ!あーよかった、ぱちぱち(拍手)。「まきば」に匹敵する、ロードアート史上最大の作戦「かめのなみだ」。あの作業がどこにつながっているのか、その答えは9月3日の上映会で明らかに!もうすぐですよ!
当日、子どもたちのがんばりは、もうほとんどあり得ないぐらいのレベルでした。あの炎天下での献身的な努力、協調性、理解力…日本人ってすごいですよ。世界一かも。お父さんやお母さんの協力もすばらしかった。ロープを持って映る範囲を決めたり、走り回る子どもたちを見守り水分を取らせたりと、あの支えが無ければ決して成功しなかったでしょう。そして大塚いちおさん・永田琴監督をはじめとするプロの制作チームも、たいへんな仕事だった割にとても楽しんでくれました。えふでのような変わった(?)集団に興味をもってくれて、さらにこのような形で協力し、成功に導いてくれた。そのパワーたるやすさまじいものがあります。タートルズの子どもたちのがんばりや、ラボ+OBSの活躍。いろいろと反省すべきこともありますが…詳しくは上映会のトークショーで話が出るにちがいない。
校長個人も、今回はあえてよそ行きのふるまいをせずに、路上でも普段の授業と同じようにふるまおうと決めていたのでした。特にラボには大人以上に厳しく結果を求めましたから、「急げ!」「ちゃんと押さえろ!」「頭を使え!」「曲がってるぞ」「ニコニコしろ!」「声を出せ!」「バカ!」…道行く人、初めて校長を見た人は「あれはひどい」と感じたことと思いますが、ワシはこんなやり方です、いつも。映画には現場の音声が入りませんので、「あれはきっと空耳だわ」「アートスクールの校長があんなに怒鳴るわけないわ」と、自分に言い聞かせて忘れてください。
少なくとも「ロードアートをこのような形でできるのはえふでだけ」と各方面の人たちが言ってくれているように、場の勢いや空気感、そして作品のクオリティはどこも真似できないであろうと思います。終了後ふと「そういえばロードアートってもしかしてえふで発?」と聞かれたので「そだよ」と軽く答えておきましたが、実際、このメンバーみんながいなければ、今回のロードアートは実現できなかったと思います。作品見たら、あまりのすばらしさにみんなの苦労も吹っ飛ぶであろう。すごい作品にはこういう不思議な力があるのだ。
2011年8月 やりたいことを実現する人
よく「子どもは夢に溢れてる」っていうけど、大事なのはほんとはそこじゃない。どう実現するか、そこが大切だとえふでは常々考えます。そのヒントとも思える言葉が、先日、教室で配布した永田琴監督のインタビューの中にありました。
まず何か興味をもったことや好きなことを、とことんやった方がいい。そして、それと、ちょっと矛盾するんですけど、いろんなことやものを、興味をもって、みる。自分で心閉ざすものに対して敢えて、興味をもつということも、大事ですね。なんていうんですか、興味あることは何もいわれなくてもほんとに一生懸命できると思うんですよ。それに関してはとことんやった方がいいと思うんだけど、「んん?」と思ってることに敢えて、興味をもって接することですごい見方変わるし、新しい窓が開くし、それで自分の生きていくなかでいろんな選択肢が増える。それは、大事なことだと。
(永田琴監督インタビューより)
夢を見るのが大事なのか、かなえることが大切なのか、重要なのは結果か、プロセスか。何にせよ夢見ることだけが大事なわけではなくて、実現しようとする努力が貴いものだとえふでは考えます。とかく世の中的には「子どもの可能性」「夢・未来」といったことばが持てはやされがちですが、じゃあ具体的にどうするのかという段になると、ちょっと腰が引けているような気もします。そこには、やはり努力も時間も、経費も労力も、経験者の助言やネットワークも必要になります。なにより本人のブレない心や、努力を厭わない献身といったものが必要になるでしょう。
あえて厳しいことを書きますと、子どもは夢を見る存在であって欲しい。しかし夢がただの心の飾りであってよいものでしょうか。現実的に、具体的な努力を続けること。やるからには結果を出すこと。本気でやってる人は正直、挫折なんかしている暇はないでしょう。一般的な子ども論に含まれる「夢・未来」の話で温度差を感じるのはその辺りなんですよね。
では、具体的に何ができるのでしょう。たとえば幼いうちからスタートすることでしょうか。ゴルフや水泳のようにお金をかけてプロに預けるのか、紙に書いて壁に貼り毎日イメージすれば実現するのか…実現した人からのアドバイスは様々ですが、普遍的なもの・明快な答えがあるわけではありません。
大人の世界でも、やりたいことと現実との間にギャップがあることは少なくありません。限られた時間や予算。迫る締め切り、急な変更…その時々にどう判断して乗り越えるかの連続です。予期せぬトラブルで青ざめることもあれば、偶然を味方につけてすごいものができたりすることもあります。そんなさまざまな仕事のなかでも、たとえば建築のようにスタッフの数や期間が長いものは責任者の肩にかかるものが重大です。映画もそういったもののひとつといえましょう。特に映画監督という役割はまさに制作の責任者。技術・知識・経験、そして大勢のスタッフを束ね目的を達成するため、オールラウンダーとしての能力が求められるのは明らかです。
先日教室でも配布した映画監督・永田琴さんのインタビューでは、監督として活躍する前の成長の経緯について詳しく触れられています。職業人としての出だしは決して早くはないですし、映画や映像の勉強もせずにいわばド素人からのスタート。しかし文字通り、やりたいことに真っすぐに当たって来ているところがすごいのです。
「入った当初の私の欲望としては、ダンスの映像を撮ることだから、そのためにまずノウハウを覚えなきゃ!ってことですよね、映像を撮るための。純粋にそれだけだったんで、お茶汲みするし、運転するし…そうすることで何かわかるならそれでいい、ここで何か教われるならそれでいいやって思ってたんですよ。」
琴さんなりの具体的な努力はまさにそこからだったんですね。お茶汲みも運転も、映像を撮るためのノウハウを学ぶ手段として、とにかく近くで見てみたいという欲求につながっているのだと思うのです。それは強い目的意識があったからできたのでしょうし、ある種の子どものような知的好奇心の発露だったのでしょう。もしかしたら、同僚のなかでも琴監督がいちばんそういう想いが強かったのかもしれません。みんな仕事とプライベートを分ける線を引いてしまいがちですが、想像するに…琴監督は学ぶこと優先で、自分の生活と学びにズレがない時期を過ごしたんじゃないかと思います。もしかすると、他のみんなはお茶汲みとか、ロケバスの運転とかいう、その「関係ない」雑用を「仕方なく」やっていたのかもしれないけれど、琴監督だけが、そこから見える物事に好奇心を持ったのかもしれません。
馬鹿げたことに思えるようなことにでも、好奇心を持って知りたいことを見つけ出せた人だけが、やりたいことを実現できるのかも…だからワシは、進路の相談をしてくる子どもの口から「効率」とか「リスク」とかいうことばを聞くのがものすごくイヤなんです。やりたいことを本気で実現させたいなら、崖っぷちだろうが綱渡りだろうが、とにもかくにもまっしぐらに当たるしかない。もうひとつ…アトリエの掃除も、あいさつの声も、制作をするときの姿勢も、どこかでつながっている。忘れ物をしないことや画材の手入れをきちんとすることだって…ずっと先の目標へとつながっているかもしれない!つーかそこはまだ入り口であって、努力とすら言えない。それこそが、自分のできることからがんばるっていうことなんじゃないだろうか?
いつ成長期が来るかはだれにもわかりません。何かをつかめる予感がした時に、がむしゃらにがんばるしかない。振り返った時にはじめてそれが「成長期だった」といえる。大人ならわかると思いますが、そういうもんです。その意味で、今回の『かめのなみだ』は監督はもちろん、えふでの子どもたちにも期待しとります!
2011年7月 かめのなみだ
えふでのロードアートって、ふしぎですよね。描いた絵そのものももちろん作品ですが、毎回決められた時間内にあとかたもなく消してしまうという、ある意味はかなさを含んだプロジェクトです。大きな作品ですから、絵の中に入って実際に制作した子どもたちは「とにかくいっぱい塗った」とか「すごくたいへんだった」など制作の思い出のほか、道路のでこぼこした手触り、夏の日差し、ずぶ濡れになる冷たい水…など、身体的な記憶が強く残っているかも知れません。
活動後、しばらくたってから初めて作品の全貌がわかるというのも、ロードアートのおもしろさといえましょう。その意味で、写真や映像などの「残る作品」の方も、手を抜けない大切な要素です。今年はなんと、ロードアートが映画(ショートムービー)になる!これまたびっくりな企画を考えています。協力してくださるのは、えふでっ子たちにはすっかりおなじみのイラストレーター・大塚いちおさんと、まほうの絵ふでの活動には初参加となる映画監督の永田琴さん。琴さんはあの岩井俊二監督のもとで助監督を務めた後、「Little DJ~小さな恋の物語~」や「渋谷区円山町」といった長編映画、キットカットのCMなど多くの映像作品を監督・編集した女性監督。繊細でよく気がつく、サービス精神あふれた方です。何よりも、バイタリティーがすごい!まわりの人に「一緒にものを作っていきたい」と思わせ、みんなの気持ちを束ねる力に優れています。現場のグラフィック面では大塚いちおさんが、そして最終的に残る映像作品は永田琴さんが中心となって撮影・製作を進めていきます。他にも、各方面で活躍中の多くのクリエイターのみなさんがえふでに力を貸してくれます。
そんな豪華な顔ぶれで開催するロードアート『かめのなみだ』では、チョークで大きな絵を描くことに加え、撮影の演出という要素が加わります。主役となるのは小さなかめ。離ればなれになったかめたちが、あちこちを旅して回るストーリー。「一歩一歩、自分の進行方向を見つめて前に進もう」という琴監督から子どもたちへのメッセージが込められています。絵はもちろん、大道具・小道具などの製作やかめの細かな動きなど、監督と一緒に作り上げていきましょう。
昨年のロードアート『まきば』では、一気に参加者が増えてワシらの方が驚いたくらいですが、やはり核になるのはえふで会員のみなさん。あれだけの規模にもかかわらず、当日現場に集まったみんながクオリティの高い制作をすることに対して「すごい」「驚異的」という賞賛をいただいています。さらに全国各地から「自分のところでもロードアートをしたい」「コツは何ですか」などの問合せが数件寄せられているのですが、運営のノウハウは伝えられても、えふでのみなさんの一体感だけは真似できないだろうなと思います。最終的には参加するみなさんのがむしゃらながんばりが必要なんです。
今年のロードアート『かめのなみだ』の活動にあたり、お父さん・お母さんにお願いしたいこと。大勢で取り組む共同制作ですから、撮影をとりまとめる監督にぜひ協力してください。そして全体の絵のクオリティをあげるのは、やはり大塚いちおさんの存在。小さな子でも、自分がしたいことを考えるより「みんなのために何ができるか」を考えられるよう、まわりで見ている大人たちもぜひ後押ししてあげてください。
また今回、映画製作というジャンルにまほうの絵ふでの子どもたちが触れていくことによって、もしかするとこの先「映像で表現したい」「映画を撮りたい」という想いも生まれてくるかも知れません。ストーリー、場面構成、音楽、大道具・小道具、演出、編集…という複合的な要素がある映像作品。おもしろいことこの上ないでしょう。そして映画の特徴として、監督の主観や価値観が大きく影響していくのも事実です。この夏、永田琴監督が子どもたちのがんばりをどう受け止めてくれるのか…作品の上映会もお楽しみに!
2011年6月 子どもの手の機能と発達

次のチェックリストは、昭和30年代〜40年代の幼児の造形教育指導書からまとめたもので、当時、小学校入学前の子どもたちに求められていた技能です。お父さん・お母さんは、何歳頃にできるようになりましたか。
□ぞうきんをしぼることができる。
□ 角を合わせて紙を折ることができる。
□ はさみで直線・曲線・穴を切ることができる。
□ ねじ回し・釘打ちをすることができる。
□ のこぎりで木を切ることができる。
□ 一本のひもの中ほどに、結び目でコブをつくることができる。
□ 二本のひもをつないで、一本にすることができる。
□ ねじぶたの開け締めができる。
□ 茶碗にたっぷりと入れた水をこぼさずに運ぶことができる。
□ 靴ひもをチョウ結びすることができる。
□ 粘土をこねることができる。
□ 豆をはしでつかんで移すことができる。
□ えんぴつで形を塗りつぶすことができる。
上記のチェックリスト、いかがでしょうか。えふでに通う子どもたちは器用な子が多いですから、当然合格点がつくように思えます。しかし「雑巾のしぼりが甘い」「ひもは結べるが糸は結べない」「ジュニアでものこぎりの扱いに不安がある」など、厳しめの目線でみると、まだまだがんばりの余地はあります。
子どもの靴売り場に、マジックテープの運動靴がずらりと並ぶようになったのはいつ頃からでしょうか。ひもだけの靴が減ったのは、子どもが靴ひもを結べなくなったからなのか、それともマジックテープの靴が主流になったため、結果として靴ひもを結べなくなったのか…。必要に迫られなくなると、技能は自然と、少しずつ衰える一方です。
それらのことにふと気がついたのは、15年程前の経験がきっかけでした。小さな子どもの授業の中で「紙粘土に絵の具を混ぜて、色粘土を作る」という要素がありました。今のキッズコースに相当する年齢の子どもたちが対象だったのですが、結果はほぼ全員、マーブル模様。均一な色の粘土にすることができなかったのです。きれいな色粘土にするためには、ただかきまぜるだけではなくて、擦り込みや練り込み、力のなさを補うため体重をかけて粘土をつぶしたり、色の混ざり具合を見ながら作業を工夫したりなどの複合的な要素が含まれています。結果を見た先生たちの指導会議の中では「子どもの手が小さいからできないのでは」「力が足りないのでは」などの意見があり、授業を簡略化する方向の考えに傾きかけました。が、「できるようになるべきなのかどうか」という見方で考え直すと、違う側面が見えてきたのです。例えば途上国など、子どもが労働力として見なされている地域であれば、5歳~6歳でも身についている技能なのではないか。特に小麦粉文化で毎日パンを焼くような社会なら、できないと困ることかも知れません。人間のもつ力として、日本の子どもの能力がそれほど劣っているとは思えませんから、そこには「習得する機会がない」「できなくても困らない」という生活経験に要因があるのだと気がつきました。
やはり子どもたちには、何でもできるようになって欲しい。なぜなら、器用さ・うまさは自分の制作の引き出しの数を増やすことになり、成功体験はがんばりの直接の原動力になります。できることが多い方が想像力は膨らみますし、その想像力にリアリティが出てくるでしょう。
その意味でもジュニアの授業でたびたび登場するのこぎりなどは、やはり教材としてすばらしいものですね。真剣にならざるを得ない適度な危険さ。できているかどうかがはっきりする具体性。現実の授業では「できそうだ」という思いが先立って、実際にはなかなかうまくはできないものなのですが、ある意味その思いがチャレンジする気持ちを後押してくれるのも事実です。木工でも裁縫でも、やればやっただけうまくなります。問題は、できなかった事実に直面した時、すぐ諦めてしまうのか、もう一段階粘ることができるのか。また一見できたように思えても、自分に対する厳しさを持ち、できたものをさらに見直して能力を高めていこうと考えられるか。伸びる子はそこが違います。
そして豊かになったことで失われたものは、工作能力だけではないのかもしれません。「自分の行動を相手の行動と結び付けて考える力」つまり「社会性、影響する(される)力」も含まれます。電話やテレビなどかつては共有物であったものが、個人別に所有される現代。そんな傾向がますます進むことが予想されます。便利さは個人の自由という名の元に、悪く出ると自分勝手な行動を増殖させる温床にもなり得ますし、できるようになるため「努力する力」を子どもから奪う結果にもなりかねません。
最近はみんな誉められるのが当たり前になっているようで、校長がたまに「下手だ!」「ちがう!」などと直球で指摘すると、みんなきょとんとした顔をします。ジュニアでもラボでも、今の自分を否定して「実際にはそんなにできていない」ということを自覚させることが次へのステップになるはずです。そのように、正しい認識と努力があれば、幼稚園児であっても大人も驚くような技能を身につけることが可能です。そのためには、ひとつには経験。もうひとつは評価の物差しが一定であること。がんばりと結果の良さを分けて評価しなければ、正しい判断はいつまでもできないでしょう。そしてそれらを見守る大人の側に覚悟が必要だということ。本当にできるようになってほしいという気持ちは子どもに伝わります。
5月 大塚いちお展・まほうのえふでと大塚いちおの布ワークショップ
布をつくりました
NHKの人気番組「みいつけた!」でコッシーなどのキャラクターデザインをはじめとしたアートディレクションをされている大塚いちおさん。最近ますますご活躍中のイラストレーターですね。まほうの絵ふでの親子にも、夏のロードアートをはじめ様々なワークショップでおなじみです。
さて、今年のえふでのテーマのひとつに「手仕事」があります。手描きの仕事を多く手掛けている大塚さんと、このたびオリジナルの布をつくることになりました。動物やちょっと抽象的な模様の大塚さんのイラストで構成されたかわいい布です。ぜひこれを使ってみなさんに手仕事をしてもらいたい。その意味では大塚さんの「作品」であるとともに、みなさんの「材料」としての役割をもつものと考えています。
手捺染という手法
さて、手仕事といえばその布を作る過程そのものも興味深いのです。今回は昔ながらの「手捺染(てなっせん)」という手法でお願いしました。色ごとに型をつくり、色糊をへらで刷り込むことによって生地に一色づつ色を浸透させるこの製法、一枚の布ができるまでにはいろいろな業種の職人さんの手がかかっています。型を作るための型屋さん、色を調合する専門の職人さん、プリントする捺染屋さん、さらにその前後に布を洗いをかけたり、プレスしたり、ロール状に巻き取ったり…こんなにたくさんの行程があり、仕事も細分化されているとは経験してみないとわからないことだらけでした。やはり最近ではこの世界でもデジタルプリントが主流になりつつあり、インクジェット等の簡易的な機械も開発されているそうです。しかし長年の経験をもつ職人さんたちの技術はすごいもので、深みのある、機械では表現するのが難しいニュアンスまで制作することができるそうです。手間はかかりますが、良いものをしっかりと作る日本の職人さん。やはり手仕事っていいもんですね。
手仕事のおもしろさ
今年のゴールデンウイークには、大塚いちおさんの個展「マジカルレインボーツアー」、そして大塚いちおさんの布を使った、ちくちく手縫いのワークショップも予定されています。昨年から進めていたこの企画、進める間に大きな震災もあり、延期・中止などの話もあったのですけれど…やはり直接の被災地ではない北海道民としては、元気に活動するのがいちばん!たいへんな地区がある分だけ、まわりのワシらはどんどんやれることをしないとね。日本の元気が無くなっちゃう。
ということで今回のワークショップでは、工作好きな人向けのがま口作り、そして裁縫が好きな人向けのスカート作りを予定しています。どちらも多少手はかかりますが、小学生の家庭科の時間に習う程度の技術で完成できるそう。試作した先生たちによると、手縫いは思ってたほど大変じゃないそうです。ミシンでダーッと縫う方が良い印象ですが、手縫いの方がきれいに仕上がり、コツをつかめば縫い目もじょうぶ。途中で形を変えたり「失敗しちゃった!」って時に糸をほどくのもかんたん。手縫いでこんなにできるんだと再発見する機会になりそうです。
昨年冬のママ部「あみあみ会」で編み物に熱くなってた様子をみると…もの作りに打ち込んでいる時間は大人も子どもも変わりませんね。「子どものため」「母の日のプレゼントに」はたまた「やっぱり自分用に」楽しみましょう。
札幌では初となる大塚いちお展
ワークショップの会場となる大塚いちおさんの個展『マジカルレインボーツアー!』は、昨年発売された作品集『magic!』を記念して開催する、大塚さんの全国ツアーの第一弾とのこと。札幌がスタートとはこれまた光栄でございます。過去の作品とともに、未発表作品を含めて展示する大塚ワールド。ファンタジーとリアリティのあいだを行ったり来たりする大塚さんの世界観にふれるのが楽しみです。初日の4月30日の夜にはトークショーも予定されていますので、えふでのみなさんもぜひ足を運んでみてください。









