絵筆新聞

2010年6月 苦労なくして成長なし!

 えふでは「苦労なくして成長なし」と言い続けていましたが、いざ脱ゆとり宣言が出ると、これはこれで心配ですね。なぜかというと前提の話がないから!ストレスやら苦労やらを子どもから取り除くべき、という考えそのものを変えないといけないのですよ。電卓で計算が得意になるわけないし、インターネットでコピペって、勉強じゃありません。だいたいからして便利なものを使って実力がつくわけはないでしょう。興味のあることなら何を聞いても覚えちゃうような時って、誰でもあるはず。そんな伸び盛りにがんばらせなくて、いつがんばらせますか?例えて言うなら、痛いならやめていいよ、無理しなくていいよ、やりたくないならやらなくていいんだよ…というリハビリの先生ってちょっと困るじゃないですか。ほめようが、おだてようが叱ろうが、まず、できるようにするために、どのくらい負荷をかけてがんばらせるかが大事でしょう。やらなきゃいけないことは結構はっきりしているはず。…で、改めて思ったこと。「子どもを否定してはいけない」「のびのび自由に…」って、やっぱり大筋で間違いじゃないでしょうか?うーむ…間違いってゆーのがちょっと言い過ぎなら、理想と現実をどう見るか、といったことかもしれません。その辺の認識をあいまいにして、脱ゆとり宣言って…ますます混乱するのは目に見えてます。具体的に何がよくて何を改善するべきなのか…ま、そいういう方向の宣言はなかなかできないんですけどね。
 実は美術なんかはもっと極端です。上の世代の指導者が、ほぼ全員「子どもをほめて伸ばせ」「子どもの自発性を育てよ」と主張しているのを見ながら、校長は「たしかに正論。でも、どうやったらいいのだろう?」と疑問を感じ続けてきました。ワシがえふでの責任者になって対面した現実は、ほめられた子どもたちは嬉しそうだが、その喜びが意外と表面的なものである時も多いということ。安易にほめられることに慣れてしまうと、それはそれである種の不幸です。ほめられることがひとつの目的になり、本来の学びにあるべき根源的な事柄を取り間違えてしまいがち。制作に深く入り込んで本質をつかむ喜びを知らず、「やりかたを教えてくれればできるのに」「こんなにがんばったのに」と表面的なことを気にする…そんなやりかたで果たして子どもが伸びるのか?現在のえふではそういう疑問からスタートしたと言えます。
 で、ワシが決めたのは、よくないものはよくないと(きつくじゃなくて)はっきり伝えること。大人のワシらは、何でもやってくれる子どもの召使いではない。自分でできることはなるべく自分で。制作だけではなく片付けも自分でする。もちろん、本人がそれまで以上のがんばりを見せたときは本気でほめる。成長に必要な健全なストレスを与え、自分が「できた」という実感を持たない限り、伸びるチャンスはなかなかやってこないように思えるのです。
 それと「伸びる」主役は子ども自身であることを勘違いしないようにしたいとは思っています。彼らが勝手に伸びるのであって、本質的には指導する側が伸ばしているわけではないんです。ワシらがいろいろな工夫をして、できる限り成長するように仕向けることもできますが、本当の意味での成長はあくまで本人次第。単純明快にいうと、自分でやろうとするからできるようになるのであり、美術を通した教育とはそういうものに過ぎません。教える側はあくまでもきっかけを与え、チャンスに気づかせたりするだけです。
 話はそれますが、現在は大学で教鞭を執るかつての学友からこんな話を聞きました。実は最近は大学生の不登校がなかば現実化してきているのだそうです。講義では歩き回るし、私語もメールもやめないし、あげくの果てには家庭訪問みたいなことも必要とされているのだとか。昔の大学教授は研究の最先端を講義すればよかった。学生たちは自分で問題を見つけて、勝手に学べばよかった。しかし近年、他人に全く関心がないのではないかと思えるほど、挨拶もしない、学校にも出てこない、何をするでもなく家にいるという学生が増えているというのです。草食系などといって笑っている場合じゃない。じっと動かないで光合成しているようなイメージ。つーか…それじゃ草木系じゃん!わ、笑えない…日本は大丈夫なのか?!もしかしたら日本の子どもは、世界中の誰よりも権利を約束されているのかもしれない、とワシは考えています。その意味では、日本は世界のどの国も経験したことのないところに到達しつつあるのかも。安全と安心を与えよ、不快感を極力排除せよ。競争を避け、なるべくつらい思いもさせないように…日本人の生真面目さを発揮して、みんながそのようにがんばってきましたが、知らないうちに子どもから奪ったものも少なくないのでは?
 さて今年のゴールデンウィーク中には、ジュニア・ラボを対象に特別講座「ただのうし」と銘打ったハードな共同制作を行ないました。これまでも相当たいへんな制作をこなして来たえふでの子どもたちですが、そんな中でも今回のは相当つらかったんじゃないかと思います。のこぎりや電動工具など、普段あまり使わないものも扱いましたし、短い時間の中で、次から次へと行程をこなしていかねばならず…特にジュニアになりたての小3の子どもたちにとってはキビしく感じるところも多かったようです。しかし!今回の講座は内容が濃かった。そしてワシの中ではつらさの中で子どもたちの実力が少しずつ伸びたんじゃないか、各自が何かを掴んだんじゃないか、という手ごたえがあったのです。

2010年5月 想像する感性ってのはね・・・

 家にはたいがい窓がありますが、そんなあたりまえだと思っていることをちょっとひねって、窓が無い家を想像してみて下さい。「あり得ない、息苦しいじゃない!」とか「まるで牢獄じゃないか!」なんて感情は少し抑えてね、あくまでたとえ話ですから。ですが読んでいるうちに、たしかに窓はいらないかも…とか、ちょっと混乱してくるかも知れませんよ。窓が必要というのはノスタルジーだ…なんて感じるかも知れません。
 さてそれでは始めましょう。窓ってどんな役割をしていますか?外の明るさを室内に入れてくれるし、開ければ換気もできる。風がそよそよと入って来るし、外の花の香りもする。…じゃあ逆にネガティブなところはありますか?ない?ここからはイマジネーションの問題です。何かありませんか?例えばセキュリティの意味では、壁を壊して入って来る泥棒は聞きませんが、窓は割られたり、カギが壊されたりと、防犯上の弱点ではありますね。断熱の関係でも窓ってすごく効率が悪いです。北海道だと冷気が入って来ますし、凍りついたり結露したり、逆に夏の日差しは暑いし、外の熱気も窓から入ります。加えて人から見られるのも気になるところです。そんな意味でもブラインド、カーテンなどを取り付ける必要が出てきて手がかかります。といったように、窓のせいで起こる問題も少なくないようです。
 そこで、思い切って窓のない家にしてみました。窓のかわりに液晶テレビを埋め込み、外の景色をカメラで写す。外が明るければ、部屋も明るい。外が暗ければ窓のように画面も暗くなるのですからそれほど変わらないかも。カーテンをしなくても暑い日差しは入ってこないし、人から見られる心配も無い。肝心の換気や断熱は高性能なエアコンを使うことで問題解消。窓がないと寂しいとか、考えられないとかいうのはノスタルジーなのかも…です。だって、新しい概念が生まれると、それまでにあたりまえだったことが大きく変わるのはよくあること。昔と比べればあんまり手紙も書かなくなったし、車に乗っても、昔ほど窓を開けなくなったような気もする。蛇口から水を飲まない子どもも増えたような気がするし、家の電話が鳴ることも少なくなった。本のかたちの辞書は時間がかかって引いてられない、計算問題は計算機を使っても良いことになった。ICカードなどを使えば値段を見て切符を買わなくてもいい…そう考えると、窓が無いと寂しいとかいうことも、取るに足らないことかもしれない。…などといいながら、実はその「とるに足らないこと」のなかで失われてしまうものがある。それがたとえば工作のセンスというものなのではないか。というのが作家の森博嗣さんの意見です。
 たとえば、窓が無くなったら、窓を開け閉めするという行為は「昔懐かしいもの」になってしまいます。すると窓がスムーズに開く、スムーズに閉まるというのはごくあたりまえな観念的なものになり、きしむとか、砂がレールに噛みこんでひっかかるとか、そういう感覚を共通の認識として持つことが難しくなります。
 同じようなことが、すでに起こっています。現在では窓は工場で作られ、現場ではめ込むものになっています。昔のようにゆがんで閉めづらくなった窓を自分で修正した経験のある人はもう少ないでしょう。雪の重みなどで建物が歪めば窓の動きも渋くなりますし、雨など水分を含めばふくらんで開け閉めが固くなる、…そういうことに対する想像ができなくなる。たったそれだけのことが、巡りめぐってたいへんゆゆしきことがらになってしまうと問題提起されているのです。
 作家活動の前に長く大学でものつくりを指導された森さんは、設計するとき、設計通りに作ってうまくいかないはずが無いと思う学生の割合が多くなったことに触れています。ここにはしみじみ共感するのですが、あんまり工作したことない子どもって、本当にとんでもないところで「うまくいくはず」だって思うのです。多くの方は「できる」という強いイメージを「ポジティブシンキング」として好ましく思うのかもしれませんが、実際にものをつくる立場にいる人、ものつくりを数多く体験して来た人の考えることはそれとはちょっと違うのです。意外に思われるでしょうが、どちらかというと作る経験を重ねた人の方が悲観論者的な思考をすることが多いようです。もちろん例え趣味であっても、規模が大きくなったり、おかねが掛かっていたりすると、失敗してもしょうがない…とはなりません。
 えふでの親御さんの中にも自宅のリフォームとか、自動車の修理とか、ほとんどプロみたいな人がけっこういますが、鉄則は「ケガをしない/させないこと」です。とはいえそういう校長も失敗は数限りなくしてきました。長い時間をかけて作ったものを、完成直後にダメにしたこともありますし、大きな物をつくって自重でひしゃげたり、トラックに載せるときひっくり返った、運ぶとき風で飛んだ…。バカなミスでダメにしたこともあれば、ぎりぎりで大成功したこともあります。そういった失敗のほとんどは起こりそうな問題を想像できない経験の少なさから来ていたり、まあなんとかなるだろうといった見通しの甘さ、過信からのものだったりします。
 作る自信というのはありすぎても、なさ過ぎてもダメなのです。プライドが高い人も心配です。ともするとできていないという結果とか現実とかを、なかなか正面から受け入れられなかったり、設計は間違えていないはずとか我を張って、そういうところで意固地に止まってしまうこともありますから。
 ということで工作の経験が多い人ほどチェックのポイントが多く「こういう部分が難しい」「ここで失敗するかもしれない」という悲観論者的な言い方をして、素人(?)に釘をさす言動になることが多いのです。
 さて、北のエリートなどとほめられることもあるえふでの諸君にメッセージ。…ワシからじゃないけど。前出の森さんはこんなことにも触れているのです。「エリートは、わからない人を指導することが仕事になったりする。できるできないで優劣を意識させるのが仕事じゃない。だからできる人は『自分がわかることを、わからない他者がいる』ことの認識が重要だ。」と、これも健全な失敗経験が無いと想像すらできないものなのです。そういう意味では近年の方があり得ないようなミスや失敗で大騒ぎになることが多いようにも思えてきますが…。
 えふでの子どもたちには経験をたくさん積んでもらって、難易度が高くてしびれるようなプロジェクトを成功させてもらいたいものです。世界中から賞賛されたり…とかね。自由にのびのびじゃないんだよ、自分に厳しくなのだ。
 絵を描き、工作をたくさんせよ!失敗を予見する感性を磨き、できない他人を導く人になれ!ハラハラドキドキするような制作体験の積み重ねなくして、そういうヒーローにはなれないぞな!

2010年4月 愛される人になれ!

 我が子の将来はどんなふうであって欲しいですか?これについてはお父さんお母さんにぜひ3段階の質問をしてみたいですね。①究極の理想「例えばノーベル賞、世界チャンピオン。…大統領とか?」。②マストの理想「最低でもこのくらいの能力は身につけて欲しい」現実的に大人としてこのくらいのことは…という理想。③2つの理想の中間にある、実現の可能性が相当高い夢。いかがですか?
 ということで説明させていただきますが、えふでで学んだからといって、特にデザイナーやアーティストになる必要はないと思うんです。いや、もちろんなりたい人は一生をかけて取り組めばいいのです(アーティストはなりたいひとがなるのではなく、表現すべきことや、証明すべきことがあると強く感じる人がなるべきだと校長は思っていますが)。で、えふでが行なっているのは「美術を通した教育」であって、「美術の教育」ではない。これは改めて認識していただきたいことなのですが、このふたつの間にはあまり違いがないように見えて、実際はかなり違います。後者の「美術の教育」を行なうことができるのは、だいたい14歳頃よりあと。自己に対する客観性が生まれてからです。一方、えふでが行っている「美術を通した教育」は、もっと総合学習に近い。お医者さん、弁護士、学校の先生、メカニック、消防士、レーサー…職業は何であれ、考えたことを他人にまっすぐ伝えることができ、問題解決のすじみちを考え、ひらめきがあり…やはりアイディアのある人になって欲しいという思いが校長には強くあります。
 校長は、えふでの子はまわりから応援され、期待され、愛される人になって欲しい!しかしそういいながら、考えれば考えるほど混乱してくる時もあるんです。例えば、愛されるってどういうことなんでしょうか。子どもは愛されて生まれてきて、愛されて育てられいるうちに…いつのまにかずんずん大きくなっていきます。たしかに子どもはかわいいのですが、問題は子どもらしさによる愛され方の段階を過ぎてからでしょう。思春期を過ぎて、大人になって仕事をするようになっても、いかに他人に愛され続けるか。そこで、少しそこを掘りさげて考えてみることにします。
 子どものことをかわいいと感じる理由のひとつとして「ベビーシェマ(ベビースキーム)」と呼ばれるものがあるのをご存知でしょうか?ベビーシェマとは子どもの姿形の特徴のことで「刷り込み(imprinting)」でノーベル賞を受賞した動物学者のコンラート・ローレンツ先生の理論…だったはず。子どもの姿かたちの特徴とは「大きな頭」「丸い頬」「目と目の間が離れている」「目鼻立ちが低い位置にある」顔。「丸くてずんぐりした」体形のことを指します。だれですか、「ウチのおじいちゃんもそう」とか言ってる人は!そういった特徴満載の1歳児くらいの赤ちゃんを見ると、誰でも「何かしてあげたい」という保護本能が働くのだそうです。つまり、「赤ちゃんを見る」→「可愛い」→「何かしてあげたい!」というヒトの一連の行動/感情ですね。一番愛らしく感じるのは「大人による庇護」が一番必要なときで、それがちょうど歩き始めの1歳ぐらい。好奇心旺盛で行動範囲が広がるのに、自分では危険を察知することがまだできないので、親がほったらかしにすると結構危なっかしい!ってときなんだそうです。ですから、そういうベビーっぽい部分がいくぶんか残っているキッズの子どもたちも、大人にそういった気持ちを抱かせる場合が多々あるわけです。手先のおぼつかないところは、なんといいますか…体育会系でビシバシ厳しいえふでといえども、やはり「手伝ってあげたい」と思っちゃうこともたまにあるわけです。しかし、問題はそのあと。成長により、子どもらしさが外見から消えたあと、この子はどのようにして愛される存在になるべきなのか?子どもらしさが消えてからはっと我に返り、できない自分に気がついて右往左往したって遅いわけです。やはりひたむきに努力の方法を身につけて、まわりから応援され愛される存在になってほしい。そんな思いもあって校長はいつも、子どもに子どもらしさを求めていないか自問自答し続けています。
 ワシもいまだに結論は出せないのですが、大人になっても愛され続けるためには…他人が感じていることに対する想像力が不可欠なんじゃないか?…え、ワシ?ワシ自身は愛されるどころか、ただ面倒な人!うはは!しかし絵を描き続けて、価値観について考え続けてこれたのは大きかったように思います。人の痛みとか、喜ぶことががわかるってのはつまり…人がどういう感情を持つのか、その過程をリアルに想像すること。想像力ってひと言でいうけど、例えば古典や他人の経験からもいろいろと学ぶこともありますよね。テレビや映画だって感情をうまく喚起させる。けれどやはり…自分がつらい目に遭ってみないと、ほんとのとこではわかんないだろうなとは思います。そういう経験をありがたいって思わなきゃ。それまで培ってきた自分の基盤をぐらぐらと揺さぶるような経験…例えば他者との違いや落差を感じたり、温度差のようなものに気づく経験が、どこかで必要なんだと思います。美術を通した教育で、自分を知り、他者を知る。そんなことを全体の大きなねらいとして、2010年度もがんばりましょう。

2010年3月 じょうずな子どものほめ方!?

 教育書、雑誌、テレビ…「じょうずな子どものほめ方」なる話題が多い今日このごろです。…ですがほめ方って…そんな方法論はあるはずがないのじゃないでしょうか!だいたいからしてほめてあげようとか、ほめて伸ばそうなんていう、上から目線が気になります。そもそもほめ方といっているその時点で、ホントはそうでもないけど、相手をいい気分にさせて自分の思うようにしたいというヨコシマな気持ちがすでに見え隠れ…していませんか?だいたい子どもって変なとこがめちゃめちゃセンシティブ。そういうヨコシマな気持ちをするどく見逃さなかったりします。それはみなさんがいちばんよくご存知でしょう。
 子どもが一番うれしいのは、子どもも大人も関係ない同じ目線で「くうーっ」と認めざるを得ないほどすごいことを成し遂げた時ではないでしょうか。美術の場合なら、思わず大人もびびるような作品を作っちゃったときも、子どもたちにはその大人のびりびり感がよく伝わっているものです。しかし絵画、特に子どもの絵(+現代美術?)はどこをどうほめていいかがわからんというのが大多数の方の本音ではないでしょうか。最近のNHKの美術番組などでも、いわゆる専門家ではないタレントさんや女優・俳優さんなどに絵を見た時の印象を語らせる場面が多くなりましたが、校長が見ていても、大きくはずしたコメントを言わないように細心の注意を払いながら、それでいて専門家が触れないような気のきいたことを言おうと、なにかヒリヒリした収録の雰囲気を感じて、いたいたしさといいますかドキドキ感を感じることが多くなりました。正直、気が気じゃありません。しかし、そういう状態になることって…ありませんか?「子どもの絵にはほめるところが必ずあります」なんて本も出てるくらいですから、困惑している人も少なからずいらっしゃるんでしょうが…うーん、それってどうなんですか?心の底から言ってるんでしょうかね?やっぱりこれも少なからず上から目線…そう感じるのはワシだけでしょうか。
 そもそも「子どもはほめて育てろ論」って、どこから始まったのでしょう。もちろんほめられて嬉しいのはあったり前。大人だってうれしいぞな、にんげんだもの。(©相田みつを?)でもとってつけたようなほめ方や、ほめときゃ伸びるだろう的な言い方では…まっすぐな人間性そのものが育たないのではないでしょうか?心理学者の河合隼雄先生の言い方をお借りすると、魂のぶつかり合いのような中でこそ、腑に落ちる、真の価値ある教育が生まれるように思えるのです。
 校長は長年美術にどっぷり浸かっていますが、思わぬところでよい作品に出会うことがあります。それは巨匠といわれる人たちの作品であることもあれば、子どもの作品のこともあります。しかし極論すればどちらであってもそれほど変わらないのです。技術面では遥かに差があれど、むむむっと魂に響く「共感」であるのには違いがありません。専門的にいえば、やはり子どもにはそれぞれの発達過程があり、それなりに経験なくして得られないもの、同時に得た分だけ手放さねばならないものもあります。しかし子どもとしてのくくりではなく、こころの表現としての営みを見るだけでも、よいものにはやはりこころに響くものがあるのです。
 しかし…そう聞くと、なおさら評価が難しく、自分たちの日常とかけ離れたものに思えますよね。まず好き嫌いに、本音で向き合うことから始めてみてはいかがでしょう。好き嫌いの情って、子ども大人を問わずすごく伝わりやすいと思うのです。そしてもうひとつ、子どもたちが描いた絵を、同じ経験をするつもりで、描いた順番だけをなぞるようにしてよく見ること。それだけでもずいぶん発見があるものです。
 さて、えふではハンパにはほめません。…って書くとただ厳しいだけのようにも見えますが、逆なのです。自分にないものを見つけたら、その自分の発見に応じてしっかりほめる。つまり…あくまで自己中心的に「容赦なくほめるぞ」ってこと!子どもと接する大人として、それが最大限に相手を同格に認めることだと思うんです。子どもをほめることって、意外にそれ自体が目的化してしまいがちです。しかしそれは注意して避けなければいけないことだと思います。以前ニッポンをほめようキャンペーンというのがあったのですが、「このろくでもない日本をほめよう」「すでにほめてないよオマエ」(©爆笑問題)そんな感じになってしまいますものね。ほめることは義務ではないんですから、こころに響く部分があったら、素直にそのまま伝えたいものです。

2010年2月 柳本浩市×まほうの絵ふで 博士がぼくらに話したこと

 博士こと柳本浩市さん。ワシは未だかつて、こんなに大量の情報を頭の中に入れている人を見たことがない。ウオーキングディクショナリ(歩く辞書)どころか、リビンググーグル(生きるgoogle)なのだ。すごいのは頭の中だけではない。自宅をはじめ、全国6ヶ所にある博士の倉庫には、ガムの包み紙から石器、そして隕石に至るまで世界どころか地球の外から(?!)までも集められた様々なコレクションが収蔵されており、いまだ増殖中なのだという。博士の森羅万象に対しての膨大な知識は日々集められたそれらのモノから分析されている。そんな日本を代表するコレクター、柳本博士が昨年の秋からなぜかワシらのまほうの絵ふでに登場。すごすぎて理解不能なところもないでもないが…年明けに開催した『未来をつくる眼差し』展までの活動の中で、デザイン研究チームはもちろん、一緒に行動したワシらまで、それはそれは様々なことを学んだのであった。今月はそんな博士プロジェクトの全貌をレポートするぞな。

脳内マップの全貌
 会場である大丸藤井セントラル7階。まずエレベーターの扉があいて目に入るのは黒板に描かれた博士入魂の「脳内マップ平面版」。展覧会の案内にもなっているこのマップ、実は博士が子どもたちからの質問を受けながら(!)下書きなしで(!!)約2時間で(!!!)描きあげたものだったのだ。描かれたキーワードは今回のワークショップで子どもに出されたお題と同じもの。しかも関連するものどうし線で結ばれている。この網の目のように入り組んだ地図状の情報。平面で描かれている時点ですでにくらくらするほど複雑。気が遠くなりそうなところをぐっと踏ん張っていよいよ会場へと進むと…おおおお!そこはまさに柳本ワールド!華やかな色と整然とモノが並んだその物量感に圧倒されてしまう。すぐに目に入るのは「柳本博士の脳内マップ立体版」広い会場内の空間に、宙に浮いて並んだキーワード。日を追うごとに赤ん坊の脳神経のごとく繋がりが増えていき、最終日には巨大な網の目状のかたまりに成長!ひとつひとつの繋がりが、来場者が見つけた関係性でできている。子どものためのワークショップだったが、漢字を読むのもやばめのキッズはもちろん、大人も夢中になって繋がりを探したのであった。デザイナーなどその道のプロも嬉々として参加しておった。参加者は天才柳本博士のバッジもゲット。今回の展覧会は来場者の滞在時間が長かった事もポイント。なぜなら見れば見るほど発見があったから。まさに博士のアタマの中は、掘っても掘っても底が見えない。

博士のコレクション
 博士と校長のあいさつ文では、なぜにこの展覧会なのか、教育とデザイン、ものごとを考えることに対しての両者の思いがつづられ、続いて博士のコレクションが整然と並ぶ。「オリンピック」「万博」といったものから「IBM」「コカ・コーラ」そして「ガムの包み紙」「宝くじの券」に至るまで。まさに圧巻!校長のお気に入りは「包装紙」昔の図案の奥ゆかしさ、つつましさというか…しみじみよかったのう。実はこれまで単一カテゴリーのコレクション紹介は博士のもとに多くの依頼があり、雑誌の特集や展覧会の依頼は数知れず。もちろん博士の持ってる物でまかなえるそうなんだけど、今回の眼差し展のように、全貌(のホンの一端、全体の30万分の1くらい?)が紹介されること自体、日本で初めてなのでした。そう言われてみればわざわざ東京から見に来た人がずいぶんいたもんなー。

博士の個人年表
 今回の展覧会で隠れた人気スポットがここ!博士の年表。現在につながる相関関係への興味はここからすでに始まっており、桁外れの行動が羅列されてる。ギャラリートークでも人気大。いわく4歳で「(日本の)おんがくはどうやって生まれたか」という研究に没頭。なんでもラテン語の声帯の本を参考に、日本の音楽における考察までをしたのだというから恐れ入る。現在最先端の研究とされている、最短距離を選ぶという粘菌の行動も、博士に至っては南方熊楠に触発され9歳の自由研究の題材になっている。そのときの時代背景と流行ったもの、そして柳本少年の姿を思い浮かべると、なんだか無性に笑える。圧倒されると人間笑うしかない。

世界のミルクマップ
 世界地図状になった展示で、置いてあるのは世界各国から持ち帰った牛乳の紙パック。もちろんデザインも言語も多種多様。普通はそのままゴミになってしまうものが、博士の考察で言語や宗教そしてデザインの哲学を知るための教材になっている。もちろんイスラム文化圏は羊やヤギのミルクパックになっている。ロシアのマトリョーシカ型など、牛乳パックのイメージも大きく変えざるを得ない。そういえば博士、えふでの帰りに牛乳買って帰ってたもんなー。

消費行動調査隊
 今回子ども達との授業のスタートになった「消費行動調査・店内マップ」と、その「調査メモ」の一部。調査は2日間で約700データ。博士の指導もあり洞察力、仮説の立て方も、最終的には多くの大人を唸らせるレベルに。みんななかなかのマーケッター。博士いわく「企業にとっては数百万の価値がある調査」たしかに企業の重役の方々がうーむと唸って長時間夢中になって解読してました。えへへ。

まとめ
 じっくり読み解くと3〜4時間はあっという間に経ってしまう濃い展覧会でした。柳本少年を想像しながら、これからの教育について考えていただけたと自負しています。あ、実は博士はコレクターではないと公言されておられます。集めるのが目的ではなく、博士の収集には分析と検証が組み込まれています。それこそ蓄積が面となり立体となって体系づけられてゆく。そんな博士の思考の一端に触れたことが、子どもたちの将来にどのように影響するのか、えふで校長は楽しみにしております。

2010年1月 未来をつくる眼差し

 『デザイン界の知の巨人』として、度々この繪筆新聞でも紹介している柳本浩市さん。まほうの絵ふででは10月からジュニア・ラボの子どもたちを対象に、デザイン研究チームというワークショップ活動を実施しています。
 そしてすっかり恒例になったまほうの絵ふでの冬の展覧会、今年はこの柳本浩市さんとえふでの子どもたちによる、観察や調査をテーマとした壮大な展示を予定しています。9月に行ったトークショーの冒頭でもお話しましたが、この柳本博士、ひじょーにわかりにくい方でございます。なぜならスケールが大きすぎる!出てくる数字や視野が、桁違いに大きいのです。世にいわゆるコレクターと呼ばれる人たちはたくさんいますが、柳本博士のようにあらゆるフィールドに切り込んでいる人は珍しいでしょう。そのくらい稀少であり、普段はまずお目にかかれないすごい方です。

10月
 さて、そんな柳本博士と共にスタートしたデザイン研究チーム。冒頭から飛び出したテーマは「オバちゃん観察」。オバちゃん観察とは…柳本博士いわく「人はモノを買うとき、理論的に考えているというより、もっと動物的な部分や無意識の部分で善し悪しを感じ取っているのではないか」そしてその無意識のちからが最も発揮されているのがいわゆるオバちゃんたちである…という深い考察から生まれた概念。それを実際にお店に出向き、ひたすら観察してみるというのです。これを初めて聞いた時にはさすがに驚きました。ひとしきりデザインや教育の話をした後でしたから、最初はジョークかと思っていたのですが、話を聞くうちに論理的な根拠があることが判明。しかも今をときめく若手デザイナーやグッドデザインの弱点を見事に突いた鋭い視点と分かり、ぐうの音も出ませんでした。消費者の立場でものを作る。そこで基礎教育を行っているまほうの絵ふでとしては、この博士の視点にまっすぐ切り込むことにしたのです。
 途中経過はえふでのウェブサイトでレポートを見ていただくとして、実際のスーパーの売り場では、博士の言うとおり様々な「無意識」がありました。理由もなく商品を手にとる。しつこいほど果物の裏を見る。ラベルを凝視する。魚をつつく。パンを手でもてあそぶ…いやあほんとにほんと、それは何のため?と不思議に思えるほど、スーパーマーケットは謎の行為に溢れていました。子どもたちは小さなメモ用紙片手にひたすら買い物客の行動調査。何をどれだけ触ったか、どんなものと比べたか、どこを見ているのか…結果、何を購入したのかまでしっかりと調査メモに記入。そのデータ数は1000枚を越え、博士からは「プロのマーケッターよりすごい」とお褒めの言葉をいただきました。
 さらにただの数字や記号であるデータから、どんな意味を抽出できるか。「値段が第一」「おいしそうなものを選ぼうとしてる」「触ることでパンの味を想像している」などなど、買い物客の視点を掘り下げて考えていきました。加えて、買い物をスムーズにしてもらうため、お店側がしている様々な工夫も見えてくる。日常の買い物をするスーパーマーケットを舞台に、その土地の文化や人間性まで見ていこうというのが博士のすごいところです。

11月
 約1ヶ月後の2回目の授業では、子どもたちに情報のつながりを知らせるため、図書館を舞台にかなり本格的な調べものの授業。博士から問題が書かれたカードが配られました。
 「ロシア・アヴァンギャルド」「コンスタンチン・ブランクーシ」「武満徹」「アーツ&クラフツ」「ポンピドゥセンター」「グスタフ・マーラー」「ウィーン分離派」「白樺派」「ウィリアム・モリス」「松方正義」…大人でも説明を求められると困るくらいのキーワードがずらり。子どもたちはそれが人物なのか、物なのか、社会現象なのか、まったくヒントがない状態からスタートです。図書館に放たれた子どもたちがとった行動はまず図書検索機に向かって走ること。さすがはインターネット世代の子どもたち。しかし「この言葉じゃ出てこない」「本は見つけたけど…わかんない」そう簡単にはこたえが見つかりません。これは博士曰く「ネットにヒットしない情報をいかにリアルフィールドで導き出すのかの訓練」自分が必要とする情報にどのようにしてたどり着くのか。また、知らない単語や概念についても「この辺かな…」と仮説を立てて探すためのトレーニングといえましょう。
 はじめは相当苦戦を強いられましたが、どうにかそれらしい本にたどり着き、要素を書き出す。その結果「よく調べたね」と誉められることもあれば、「これは違うものだね」とばっさり切られることも。そのキーワードについて短く的確な答を求められるのです。例えば人物だと、その経歴を、思想や運動は定義そのものを…なかなかシンプルにまとめることができません。さらに建築物などは「設計したのはだれ?」「特徴は?」と…。結局博士からヒントをもらい、ようやくそれらしい書籍名が出てくる。しかしそこからその本の実物を見つけ出すのもたいへんで、本棚の前で途方に暮れる…そんな姿が多数見られました。聞けば博士は、その子の反応に応じて難易度を細かく調整し、答の要求についても、できるギリギリまで負荷をかけていたのだそうです。その子どもに対する観察力にも脱帽ものでした。みんな「難しい」を連発しながらも、やり終えた時には独特の達成感のある顔つきに。図書館という圧倒的な物理量の中からアナログに情報を見つけ出すという経験は、いつになく刺激的なものだったようです。

展覧会
 なぜ、柳本博士はこれほどまでに情報・データにこだわるのか。1月の展覧会ではそのあたりの謎を解明し、みなさんに新たな世界をお見せできると思います。幼少期から様々なものを収集し続けていた、かなり変わった少年。一般論に流されず、事実にこだわるあまり、まわりの大人たちをも困惑させた天才児。問題の前提そのものを疑うので、学校の先生なんかは相当手こずったことでしょう。しかしながら、この少年こそ今や大企業のアドバイザーとして活躍し、世の様々なブームを巻き起こす恐るべきクリエイターに育ったのです。
 『未来をつくる眼差し』展では、膨大な博士のコレクションとともに、天才の頭の中を模したいわゆる「脳内マップ」の中に入ってみることができます。今回、子どもたちが調べたキーワードが、博士の頭の中でどのように結びつき、影響しあっているのか?
 展示される脳内マップでは複層的に影響しあうその言葉を、実際に立体としてつなぐ行為に参加できます。つまり情報を自分が仲立ちし、つないでいく。それによりさらに理解が深まっていく。そのとき会場の博士のたくさんのコレクションがつながる道筋が見えてくるかもしれません。セントラル7Fで来年1月12日からスタートする『未来をつくる眼差し』展でお会いしましょう!

2009年12月 みんなのしつもん!ワシが答えます

 まほうの絵ふでのウェブサイトでも連載していました、黒やぎ・白やぎの手紙。10月末までにえふでのポストに届いた子どもたちの手紙、全員に返事を書きたいと思いつつも、これまたたいへんな量でしたので…複数寄せられた質問や、なるほどこれは!というメッセージをいくつかピックアップしてお返事書いてみました。ウェブをご覧になっていない方のために、一部この繪筆新聞でも紹介しますね。

Q 前からきになってたんだけど、えふではいつできたんですか?それと、プログラムを考えるのは、校長だけなんですか?(小6・女子)
 まほうの絵ふでのかたちができたのは30年くらい前なんだよ。校長は、小6のきみが生まれる前から校長してたのだ。ふふふ。さて、プログラムは先生たちみんなで考えます。それぞれ気づいたことや、ピンときたことをメモしておくのです。おもしろいのは、それぞれ考える場所がちがうこと。お風呂とかトイレとか歩いてる時とか…ワシはクルマの中が多いかな。実はさらにたいへんなのは、授業に組み立てていく仕事。これだと思っただいじなことを、みんなにわかるように、できるように、なるべくシンプルにしていかなくちゃいけない。道具や材料は何を揃えるのかってのも、すごく大事なことだしね。たぶん他のみんなも不思議だろうけど、ひとつのプログラムができるまでには、すごくたくさんの手間ひまがかかってるんだ。

Q 絵が小さくなっちゃうのはどうすればいいですか。(小6・女子)
 これは、構図のことを言ってるのかな?紙や画面の中で、絵を小さめに描いちゃうってこと?うーん。こっそり外側切っちゃえば?でも誰も気付かないくらい、きれいにまっすぐね。
 むずかしい言い方になるけれど、絵は自分の世界観を表すので、小さな遠慮は絵に出ます。余白にも必ず意味があります。だけど校長は、構図をむりやり直す必要はないと思います。もちろん絵の効果を考えると、構図はいいほうが得だし、訓練や練習で大きくできます。しかしそれは自我とか客観性がしっかりする中学生くらいからでもいいんじゃないかな。えふではよくトレーニング的な言い方をするけど、もちろん絵は自分の表現でもあるわけだから。自分が変わると絵もちゃんと変わるんだ。映画の黒澤明監督は「悪魔のように細心に 天使のように大胆に」なんて言ってます。おもしろいでしょ?

Q どうしてまほうのえふでってゆう、なまえなのかしりたいよ。こうちょうは、いつからワクワクさんをやるのかしりたいよ(年長・女子)
 あれ?!ワシっていつかワクワクさんになるのか?!むむー。しかしワシがワクワクさんになっちゃうと、もとのワクワクさんの仕事がなくなっちゃうであろ?ワシはえふでの校長だからならなくていいのです。
 まほうの絵ふでの由来は…なぞなのだ。ワシは3代目校長なんだけど、実は2代目校長からこっそりその秘密をきいている。しかしだれにも言わないと約束しとるのだ。だからここでは教えられません。それにしてもおかしな名前だよね、まほうの絵ふで。

Q 三びきの子ぶたキャンプに出れなかったので、冬の子ぶたキャンプをやりたいです。それからいつか校長を「ギャフン」と言わせたいです。(小5・男子)
 んあ?ちょ、ちょっと待て待て早まるな。いくら過酷な子ぶたキャンプといえども冬はいのちにかかわるかもしれん。
それにしてもあの子ぶたキャンプ、お父さんたちも「オレにやらせろ!」の勢いでずいぶん注目を集めてたようです。家族版・子ぶたキャンプとかでお父さんたちの活躍も見てみたいのう。お母さんたちも野外料理で責任重大!とかね。
 それから、ワシをギャフンと言わせたい?…なるほどな。むふふふ実力はまだまだだの。ワシを倒してから行け!

Q カブトムシの色はどうやって作るのですか(小1・男子)
 うむ!これまたいい質問だね。カブトムシってのは…カブトムシ色なのだ。キツネはきつね色。ゾウはぞう色。トラはとら色…って、あ?あれは柄だな。
 でもさ、そら色の絵の具を塗っても、空の感じは出ないでしょ。時間帯や季節によって色がちがうし、白っぽかったり青っぽかったり、いろいろ変わるよね。ということは、カブトムシのあの赤いような、黒いような、茶色いような…なんともいえない色は、自分で工夫するしかないってことだ。きみが見たカブトムシはどんな色してた?絵の具の箱にどんなにたくさん色がならんでても、きっとぴったりの色はないだろ?だってカブトムシも角度によって見え方変わるもんな。あれこれいろんな色混ぜて、きみのカブトムシ色を研究してみてごらん。

Q こうちょうの、すきなあそびは、なんですか。(小2・女子)
 ワシの好きなあそびは、犬ひも。吉田さんていうひとが考えた、犬にひもをつけて一緒に歩くあそび。
 あとはね、動くものに乗ること。エンジンでもモーターでも動くものなら、なんでも好き。芝生をかる機械でも好き。ガソリンがなくなるまでいつまででも乗ってられます。あそびって、楽しくてやめられないよね。

Q 中学校の部活(美術部)とまほうの絵ふでとのちがいは?(小6・女子)
 中学の部活ということはアートラボとの違いということだよね。
 えふでのラボは研究室を表す「lavoratory」のラボなのです。「lavatory」は飛行機のトイレとかですからちがいます。
 で、ラボは大学の基礎造形という授業をひとつの目標としています。基礎造形というのは美術大学などで、自分の専攻以外のことについて学ぶ…図工の超ハイレベル版なのです。ですから上手くなることも大切ですが、それより美術を通して、しくみや人のこころについて考えるのがねらいです。このあいだのラボなんか抽象表現主義の授業でロスコ実物大で模写すんだもの…あーた、ある意味美大よりも専門的ですよ。さて、美術部についてのアドバイスなのですが、これは学校によってずいぶん違うようです。ですからまずは美術室をのぞいてごらん。絵の具なんかがたくさんついていて歴史を感じるのはいいけれど、不潔だったり雑然としているのは論外。あまり近寄るでない。ヘタがうつります。場所というのは使う人の美意識があらわれるもの。そんなことも気にしてみるがよいですよ。

Q ごーごちゃんは何ですか?(小6・男子)
 生き物です。

Q 絵とかは、どうしたらうまくかけるんですか。(小3・女子)
 おおっ!ど真ん中の質問。絵とかっていうくくりかたがいいね。
 昔から校長は絵や美術についてわからないときは、他のことに当てはめて考えてきました。たとえば野球ならどうだろう?上手くなる秘訣ってなにかな。運動では基礎体力がある方がいいけど、絵で体力に相当するものはなんだろう?練習試合って、美術の世界でいうとなんだろう?ってね。
 そうするとうまくなるためにはどうしたらいいかってことを、誰も具体的に言ってくれてないんじゃないか…っていう気がしてきました。一部では「うまく描いちゃいけない」なんて言う人もいます。それってなんかへんだよね?
 野球の世界ではただむやみに素振りをしてもダメで、それはただの筋トレなんだって。ピッチャーは誰で、これは3球目、きっと変化球を投げてくるぞ…そんなことをリアルに考えてバットを振ることを「素振り」っていうそうな。
 校長からひとつアドバイスをするとすれば、たくさん描くこと。当たりまえだけど、ほんとにたくさん描いてる人ってそんなにいないんだ。あとは、必ず目的やねらいを持って描く。そしてそのとき考えたことを覚えておく。覚えられないのならノートに書く。かんたんだけど、みんななかなかしてないんだよ。

校長総括
 いやー子どもからの手紙たくさん来ました!なかみを読んで、校長はじめスタッフ一同感激しまくりでした。なにより子どもの質問がまっすぐで良かった。紙面やウェブで答えられたのはその一部ですが、子どもの、美術に対する愛情・リスペクトが感じられました。さらに質問の内容も本質的なものが多く、大人でもモヤモヤしたままなかなか聞けないようなこともたくさんありました。代表してワシが答えましたが、スタッフ全員あらためて子どもの目線から学ぶ部分も多く、この企画が、多くの方に違う目線で美術をとらえていただくきっかけになったとしたらなおうれしいです。いつも考えるのですが、指導は「翻訳」です。対象が子どもだからこそ、本質的で、なおかつ知の欲求に応えられるよう、上から目線にならず、こちらも謙虚な姿勢でありたいと考えています。さて、親御さんからのうれしいメッセージも多くいただいて感激しました。お父さんお母さんからの質問につきましても、何らかのかたちでお返事をしたいと考えています。このお手紙の企画ぜひぜひまたやりましょう。これからの季節、道路状況なども何かとたいへんですが気をつけて。

よりたくさんの質問はこちらからどうぞ
→「子どもから来た手紙」

2009年11月 みんなのコーラス

「すばらしい作品でした。優しい雰囲気が出ており、見ていて心地よくなります。画面各部のバランスがとてもいいですね。ですが、やわらかく表現しようと注意しているのはわかるのですが、残念ながら描写がはっきりしなくなるところがあり形態を理解しにくくなっていました。明度の高い色がかたく響くところがあるので注意しましょう。仕上げの表現には勢いがあるのですが、少し表現が荒っぽくなるところがありました。気をつけるともっとよくなるでしょう。」
 …もしも校長が子どもの絵に対してこういう講評をしたら複雑な気持ちですか?やっぱりいや?ついていけないなあと感じますか?
 ふふふふ、実はですね…これはNHK全国学校音楽コンクール出場校、小学校の部の演奏に対する合唱指揮者(たしか清水先生)の講評を、ちょっとそれらしく美術っぽく言い換えたものなんです。NHKラジオ「みんなのコーラス」を聞きながらの、うろ覚えのメモ書きからで申し訳ないのですが、実際はこんな感じなのでした。
「すばらしい演奏でした。優しい雰囲気が出ており、聞いていて心地よくなります。各パートのバランスがとてもいいですね。ですが、やわらかく表現しようと注意しているのはわかるのですが、残念ながら発音がはっきりしなくなるところがあり聞き取りにくくなっていました。ソプラノの高音がかたく響くところがあるので注意しましょう。終盤の表現には勢いがあるのですが、少し表現が荒っぽくなるところがありました。気をつけるともっとよくなるでしょう。」
 一連の講評の最初には、曲についての聞きどころや作曲者の意図についてのひとことがあって、それからいいところをほめて…と続きます。しかし「ですが(!)」とか、「残念なのは(!)」などのことばに続いてモーレツに具体的、それでいてめちゃくちゃ辛辣な講評が続きます。どっひー!さっすが全国大会。もともとは、つけっぱなしのラジオから聞こえてきた「みんなのコーラス」。へーなんて聞いていて講評が始まり、どうせすばらしいとかほめちぎるんだろうなんて考えていたら…根底からひっくり返されたのでした。具体的でわかりやすく、それでいて厳しい言葉の数々。根底には音楽に対する愛情があるのがはっきりわかります。子どもの可能性に対して、研鑽と献身を求める態度に、迷いや甘え、おもねりはいっさいありません。校長は、この清水先生をはじめとする「みんなのコーラス」講評陣のファンなのです。そして驚くべきはこういう講評が機能しているということ。つまり、この放送に出ている各学校の合唱指導の先生も子どもたちも、少なくともこのレベルで努力し、評価されているということなのです。実際に校長はいろんなかたに話すのですが、美術の指導には昔から根強く「教えてはいけない」という信仰(?)があるのです。確かに、ある意味、頷けるところもなくはないのですが、校長的には創造性や探究心に対する考えかた、とらえかたの相違から生まれる誤解なのではないかと思うのです。といいますか…えらい方々から叱られることを覚悟して言うならば…その「教えてはいけない」という考えの何割かには、指導の結果からの責任逃れ・努力の放棄・指導力のなさについての問題のすり替えが含まれているようです。(あー言っちゃった。)いつもに増してきついことを書くのは、やはり、美術が尊敬されない原因を、美術の指導者が作っているのではないかという疑問や反省があるからなんですね。そりゃあ「こどもはいじっちゃいけない」とか「自ら学ぶことが大切」とかだけ言っていられるなら気楽でいいのですが、正直言って美術以外でそんなこと言ってる業界がありますか?逆にそういう言いかたをしている、せざるを得ない業界は、もっとずっと厳しいのではないでしょうかね。能や狂言、雅楽とか、神社仏閣の棟梁とかのように「見て盗め」という厳しさがあるならわかりますが、美術教育はもっとずっとぬるいです。一部には美術家・ヤノベケンジ氏率いる京都造形芸術大学の『ウルトラファクトリー』など、すさまじくスパルタを売りにしているところも出てきていますが、やはりこの方向は圧倒的に少数です。美術はそういった自由なものであって欲しいという期待があるのもわかっているつもりではあるのですが、同じような年齢の子どもでありながら、美術以外なら、もっともっと具体的に努力している分野がたくさんある、というのが事実です。
 …ということを「みんなのコーラス」聞くたびに考えさせられるんですよ。美術はどうあるべきなんだろうって。入り口は広く、夢は大きく。しかしそこから真剣に学ぶに値するものでないと、いつまでたってもマイナーなものでしかないですよね。やはり学ぶことには手ごたえがいります。気を付けないと、味見して、とりわけて、ふーふーして、あーんして食べさせていながら、いつまでもひ弱で困るなんて言ったりしがちです。うーむ、図太くいきましょう!

2009年10月 緊急特集 えふでジュニアが今、熱い!?

まずは拝見!今期の作品
 『ワシのチャーリー』はパーツのつながりをしっかりと描けているのがよくわかります。バランスこそ多少くずれていますが、観察力とともに、理解力の高さも感じます。下描きなし、ペンで一発描きですので、ほどよい緊張感も。
 アメリカ・ドル札作品は、平面モチーフをそのまま紙に描く制作ですので比較的易しい。ただし密度が高い!この雰囲気は描画密度の高さゆえ。お札ならではの袋文字や植物的な装飾をひたすら描き込むというプログラムでした。でもよく見ると、興味のある部分とない部分に差が見受けられるのがオモシロい。
 パインの絵も細部の描写を徹底することで、全体の雰囲気を出しています。3次元の空間認知に対してはまだ客観性がなく、回り込みの描写や葉の重なりなどはやはりまだまだ子ども表現。しかし面倒になりがちなごちゃごちゃした部分まで、粘り強く見て描く力がついてきています。
 浮世絵の模写は、日本画ならではの平面的な表現。比較的はっきりとした図版です。こう並べて見ると案外、形のちがいも目立つのですが、顔や手の表情には強いこだわりが感じられます。
 さて、ジュニアは今年度4月から授業時間が長くなりました。実は自転車の絵、浮世絵の模写など、以前90分授業だった時期には2週分の時間をかけて同じプログラムを組んでいました。思い起こすと、その時期の作品は今よりもはるかに「子ども絵」で、技術的にもつたない作品が多かった…もしたったの30分の延長で、ここまで作品が変わるのだとしたら…いやいや、他にも理由があるはずです。この質の向上、伸びっぷりは、単なる時間延長だけでは説明がつきません。違う観点からもジュニアを分析してみましょう。

授業の流れと集中力の波は?

 上のグラフは授業中の集中力の高さを表したものです。いずれの授業でも意図的に組んでいる流れですが、授業の半ばにある後半への導入・レクチャーをはさみ、子どもたちは大半の時間を高い集中力で取り組んでいる。通常、子どもの1時間の授業のうち、ほんとに集中して取り組むのは15分〜20分程度ですから、これはかなりすごい。

学年と男女の比率は?

 学年分布はだいたいまんべんなく広がっているようですが、数字的に多いのは小四でした。指導内容は高学年に合わせることが多いので、上の子たちが下の子たちを引っ張っている図式が浮かび上がります。そして男女比では圧倒的に女子が多い。伸びる生徒を見ていると意外と男子向きのジャンルでは?と思うのですが、美術系の高校・大学でも圧倒的に女子が多いようです。

えふで暦は何年なのか?

 2〜3年目の子どもたちの中でも、内訳を見ると3年目・4年目以上の子どもたちのほとんどはキッズコース出身。一方、始めて1〜2年目の子どもたちもよくがんばっている!難易度の高い授業も当然のものとして取り組んでいるのでしょうか。

なぜジュニアの力が伸びたか?
 まず第一にイスの高さなどを見直し制作環境を良くしたことがあげられるでしょう。これによりキッズからの持ち上がり組が、体格的なものからくる制作のハンデから解放されているようです。実際3〜4年生が高学年の生徒に伍した良い取り組みをしており、課題の難易度の全体な底上げに貢献しています。制作面では制作経験を通して核のある思考の組み立てをねらいとして求めています。目に付きやすいかたちや空間認知の正確さはさほど強く求めてはいないのです。これはその子の成長とともに変化する自我や客観性の確立を待ち長いスパンで考える必要がありますので…そのため細部から雰囲気を高めていくこと、しくみや構造の理解力など、全体として粘り強く取り組むことを求めているのでございます。さてこれがジュニア急成長の謎の総括でございますが、いかがでしょうか。現在1番良いと思うのは集中力。一般的な図画工作の授業と比較してもこうはできないレベルです。えふでは常々こう言ってきました。「子どもの楽しさには2つある。ひとつはうっきゃーと楽しさ爆発。もうひとつは何も話さず、顔真っ赤。ご飯に呼んでも気付かない。」その意味で大変バランスのよいクラスです。このあとの課題は…率直に言って社会性でしょうか!その辺が理解力や客観性にもじわじわと影響する…というのは、大人はよくおわかりでしょう。さらに目的から手段を考える柔軟性が加われば、なお良し。アートで子どもの総合力が高まるように…やっぱり今後もビシバシいくぜ!

2009年9月 夏の特別アートプログラム 三匹のこぶたキャンプ 8月3日(月)ー4日(火) REPORT

 ご存知の方には有名ですが、物語『三匹のこぶた』ってけっこうハードなお話なんですよね。今回、えふでの子どもたちも悪戦苦闘の末なんとかじょうぶなテントをつくり、全員無事文明社会に戻って参りました。
 今回のコンセプトは「言うとやるでは大違い」です。ルールはコラムの中にありますが、与えられた材料/素材/道具だけを用いて制作するという、いわゆる機能主義的な考え方。自由に考え、好きなように作るということではなく、限定されたものの中から目的に沿った最大の効果を生み出すことがねらいです。また模型によるプランニングであったり、トラブルを想定した計画など、今回のキャンプでは初日のこぶたミーティングから、建築的なアプローチで、チームごとの協力であったり工夫であったり、最終目標に進むための各個人の献身(おおげさ?)が問われていました。ですからこぶたミーティング時に作った模型もただの工作ではなく、部材はそれぞれ正確に10分の1の縮尺になった建築模型的なもの。10分の1の自分人形(?)も制作し、イマジネーションを駆使してどう建てるか、工程表まで作りました。実はこのミーティングの素材発表のとき、校長的に「勘がよければ気付くかもしれない」程度のヒントをちりばめておいたのですが、テントをつくることと食事をつくることを別々なものとして考えていた子どもたちには、その時点ではあまり重要なものとは映らなかったようです。例をあげると…竹→太さは2種類。(実はちょうど差し込める太さ!)のこぎりで切って金づちで割れば薪のかわりにも(そのままでははじけて爆竹に!)縄→ほぐせばたき付けのかわりになどなど。
 課題も明らかになりました。①現場での発想の展開にもう少し自由度があるとよい(設計の変更/立地条件の利用など)②全員制作経験も豊富で、用具を利用する能力は同年代の子どもに対しズバ抜けているが、逆に目的から発想して自ら用具をつくったり、本来とは別の用途に使うことがなかなかできなかった(火をつけたい→どう風をおこすか/テントの支柱の固定ができない→固定のための道具・用具を作るなど)さて、現場で校長はこんな話を思い出していました。「日本ではホームレスがコンビニから同じ段ボールをもらってきて、模様までそろえていた。しかしアフリカの小屋の柱の建て方にはどうしても秩序が見いだせなかった。もしかするとアフリカではITなどロジカルな産業が育つのが難しいかも」やや極端ではありますが作家の曾野綾子さんの意見です。今回はとりあえず寝られればよい…という部分もあったはずですが、子どもたちからはできるかぎり「美しく」つくろうと努力している部分が見受けられ、やはり美というのは整合性であり文化なのだなあとしみじみ見ていました。
 今回は場所、気温・天候、参加メンバーの年齢構成などすべてにおいて様々な偶然も重なりこれ以上ないというくらい特別なアートプログラムになりました。自画自賛ぽくなりますが、努力すべき方向が明快なとてもえふでらしいプログラムであったと思っています。しかしこの実現もやはりえふでを信頼して預けて下さった親御さんの協力があってのものでした。応援して下さった方、関わったみなさまありがとうございました。写真を含めた細かな情報はウェブ上にもレポートが載っています。こちらもどうぞ。