NOTES
えふでプラスiroiro パステル作ってみたよ!
春のえふでプラスのテーマはiroiro。かなり本格的なパステル作製に挑戦しました。もちろん今回のねらいは「画材のなりたちを体で学ぶ」ということですが、やはりせっかくのプラスですから、ものを作ることに対しての尊敬が、こころのどこかに残って欲しいという願いをこめました。市販されている物も、コストを度外視して工夫すればまず自分でも作ることができるということ。そして世にあるいろんな物が、自分たちの考えよりもはるかに手数がかかっているということを、体で感じて欲しかったのです。できることならちょっともったいなくて使うのにちゅうちょするようなセットができたらいいな、なんて。 ヨーロッパの美術の専門教育では、まず自分の使う絵の具の量をずいぶんきびしくしつけられるという話も聞きます。材料を使うことに対してのイマジネーションや、計画性に対するきびしさがあるようです。同じ時期にアメリカで驚いたのは、画材の豊かさです。使ったところを剥がして捨てるタイプの使い捨てペーパーパレットなんかは、まるで大判のカレンダーみたいなサイズ!日本で売ってる大きなサイズのものの軽く二倍!習作用キャンバスもタタミくらいのが売っていたりと、物量感に圧倒されました。絵の具のサイズももちろんビッグなお徳用。アメリカの美術教育では自分の使う分だけ絵の具を出しなさいとは言ってはいなかったようで、なんだかそれぞれ、生活の中でも美術教育と共通していることがらがあるような気がしてきます。 ヨーロッパでは食事を残さないよう叱られて、子どもが泣きながら食べてるところを見たことがありますし、アメリカのファストフードのお店では、紙ナプキンごっそり、マスタードやケチャップは数も数えずに渡されて、ほとんどそのままゴミ箱へ。日本はどちら寄りなのでしょうかね? さてプラスの話に戻ってランチタイム。えふでクッキングに突然登場したアントワープ出身のシェフ、ポールさん。一見ユニークで明るいベルギー人なのですが、実はとても教育に厳しかった!叱るところは叱る、できていないものはできていない、とくっきりはっきりと線引きをしてくれるところが、えふでの子どもたちにはとてもよかったなーと思いました。子どもたちのまとめ方も上手で、指示もわかりやすい。そのあたり、プロ意識というのか、厳格な教育の歴史が根付くヨーロッパ的というのか…とにかくさすがなのです。大きなテーブルを囲んだヨーロッパスタイルの食事では、「ベルギーの家族を思い出す」と何やら感慨深そうに楽しんでくれました。 もちろん校長もあまりえらそうに教育について話すような資格はありません。えふでプラスは内外の皆さんのおかげで子どもたちも楽しみにしてくれるイベントとして、そしてちょっと変わった造形講座として、広く興味をもっていただけるものになりました。今回も、多忙なポールさんのご参加や、はるばる京都のパステルメーカーさんはすばらしい質の顔料と技術提供をしてくださいました。それだけえふでの子どもたちに対する期待は大きいのです。 子どもたちにもいつも話していますが、これが決して当たり前ではない。ある意味稀にみる恵まれた状況にあるわけです。ですからなおのこと、作ることに対して厳しさをもち、創りだすことに対して畏れや、尊敬を持ち続けてほしい。その意味では毎回がチャンスですから、常に自分の限界まで挑戦するのが大切なんです。
美術教育の理想と現実
校長/今回は、えふでの月一で開催してるママ部で、美術教育の理想像と現実みたいな話ができたらいいなと思ってね。
井桁/大学受験のことだけじゃなくて、子どもが将来成長したときに美術やデザインの道に進むというのが、ひとつの選択肢であることを話す機会になるといいね。今回はこういう立場で行くんだけど、学院の宣伝で行くつもりはないです。あくまでも一番の理由は、えふで自体の教育のもっていき方が自分も良いと思うから。
校長/ワシも気がついたら受験業界から離れてもう十年とか経ってて、考えてみたら当時のは三世代も前の学生だもんね。最近の大学事情や受験生は実際どうなのかなって話にも興味がある。
井桁/よく出る話に、受験をするにあたり、まず美術系の就職情報が少ないってことが挙げられる。絵描きさんになったり…とか言っても、みんな実際には貧乏になる?果たして食えていけるのか?って。一昔前なら、美大を卒業したって看板描きくらいしか職がないとかへんな話があったくらいでさ。そんなのほんとは全然ちがって、仕事は山ほどあるんだよね。それにお母さんたちの考えもいろいろだと思う。少なくても子どもが高校生ならまだしも、小学生とかでえふえに通っていて、いろんなきっかけをもらったり、もしかすると将来…なんて考える場面のヒントになってくれたらいいね。ゴールをどこに持ってったらいいか、具体的には何をすればいいか。
校長/実際、最近の就職とかはどうなの?
井桁/今は一般大学だと、女の子が大学出ても、かえって就職がなかったりする。一部では文系と教育系の女子がいちばん使い物にならない、と言われてたり、学校の先生とかにはなるべく理数系や専門の科に進みなさい、と勧められたりもするみたい。一方、美術系の大学を見ると、倍率も下がってきているし、男女の違いがない条件で受け入れられる。その後もすごい売れっ子デザイナーになるだけでじゃなくてね、個人で仕事を請け負ったり、ほんとに好きなことをピンポイントで仕事にしていく人が、実際には今いっぱいいるんだよ。まず自分の好きなこと・やりたいことが先にあり、それに合った仕事を取ってきて、活躍していくという。その意味では、一般的な、まず企業や会社があり、仕事があり、そこに見合った人材を・・・ってかたちとは逆でね。例えば、日本の住所って、都道府県があり、市町村があり、番地がありって大きな方からいくでしょ?そうじゃなくて、個別の番地が先で、次に市区町村、都道府県、で、さいごに大きく日本、みたいな…
校長/おお、それはわかりやすい!
井桁/だから、やりたいことが仕事になる、やりたい仕事に就けるという意味では、今の美術系の大学はすごくいい状況にある。美大・芸大の進路を選ぶってときに将来のことを心配する人が多いけど、広くみても恵まれてると思うよ。
校長/でもよく推薦入試で実技試験を受けないまま合格しちゃうのとか聞くと、「おいおい、いいのかそれで?!」って逆に心配になることもあるけど。何せみんな自分の都合に聞こえるんだよね。努力するしないとか言うけど、まず作り手に対する尊敬がないとダメだってのがえふでの基盤。そこを飛び越してしまうと、すぐコスト優先でつくらせましょうとか、肌合いがわからないから安い国の工場でいいじゃんとかさ。ほんとに良いかどうかのジャッジができない気がするんだよね。
井桁/だからね、えふでをみててよく思うのは、小学校とか中学校のうちに美術の在り方というか…子どもによく言うのはね、カラオケ行きましょう、スキーやってて気持ちいい、ゲームがおもしろいとかってのは、楽しいだけならすぐ飽きちゃうだろ?って。ゲームでも何でも、それをクリアする困難さがあるのが面白いんだ。その意味では美術の場合、たいへんな割にうまくいくことばかりじゃないから、見返りの少ないジャンルだよね。だからこそ「好き」っていう原動力がもっともっと大きくないといけないなと思う。
校長/ワシはね、「校長は絵を描くのが好きなんですね」とか言われると、間髪入れず「いや全然」ってプルプルッと(笑)。アル中でお酒たくさん飲むからって、お酒飲むのが好きなんですね、なんて言わないでしょ。そういう人たちは決してお酒が好きなわけではなくて、飲まざるを得なくて飲んでる。ワシも描かざるを得ないというか何というか…へんな話だけどさ。美術にはなぜかみんなやたらに夢があるんだよなあ。だからワシは、親にも子どもたちにも、美術はもっと業の深いものだって言ってるよ。
井桁/そういえばこないだ、ある浪人生の女の子が「美容系の進路もいいなと思う」って相談してきたんだ。俺はどうしても美術にしがみつく必要なんてないと思うから「やりたいことが見つかってよかったな、がんばれよ!」って言ってたのね。そしたら横で聞いていた別の子がさ、すごくぽわーんとした子なんだけど、突然「自分には美術しかない。」要するに「ほんとに好きだったら迷わない」ってことをポツリと言ったの。迷うくらいならやめた方がいい、自分には迷う余地すらないってことをね、スパンと言い放ったのよ。先生たちもそれ聞いてびっくりしてさ。そういう風に考えられる人が今は少ない。小さい頃からいい教育を受けていれば、その辺はね。受験は勝ち負けのジャンルだから、厳しいし。
校長/それ聞くと井桁さんは親だし、愛情がすごくあるように感じる。えふでは、覚悟を求めてる。「たき火は遠くで見る分にはきれいだけど、近いと熱くてしょうがないだろ?」って。美術はそういうもんだ。それを理解したうえで、それでもやりたいというなら、その先を紹介してやるよ。でも決して早まるなって(笑)。それに受験は勝負事だから、勝ち負けがおもしろいと思わないと続かないしね。
井桁/美術ってある意味、教育とは相反するところがあるじゃない?えふでの子たちは、こっちに来てからも、そうやってきて、ほんとによかったって言う。粘土でこんなの作ったんだとか、こんな絵描いたんだとか…楽しいこと、おもしろかったことをいろいろ聞かせてくれる。そういうところに人間のバロメーターが出てくるよね。その意味では教育って、ほんとに良かったんだ、と言ってくれるかどうかにかかっているでしょ。かといってね、小学生でも中学生でも、専門教育を早いうちに受ければいいかというと、それは思わない。基本的にえふでは受験とかの立場から一線引きましょうというかたちだし、自分も美術だけにのめり込ませる必要は全くないと思う。興味を持っていろいろやっていくのは全然遠回りじゃないし、すごく良いことであって。それに高校の美術コースとかから行った方がいいかと聞かれたら、もし将来美術をしたいならまず「勉強したらいい」と思うね。小学校中学校で勉強ができるかどうかは、大切なバロメーターだから。
校長/それに東京で活躍している人たちをみても、デザインの仕事とかってとにかく体力がいるんだよ。やっぱ体力あるやつは強いよね。だから子どもには運動させるべきだと…ワシら体育会系だし。
えふでプラス iroiro
アートは感受性や才能だけで成り立つ世界ではありません。ひも解いて見てみると、「目に映る」「感じる・考える」というものは、科学の世界とも密接な関係があります。
みなさんお楽しみの今年の春のプラスは「iroiro(イロイロ)」。様々な角度から、いまだ謎の多い色彩の世界に踏み込んでいきます。今回えふでが子どもたちに伝えたいのは、例えば色の調合や配分などという、レシピやある種の答えではありません。普段の授業でも、色や絵の具の混ぜ具合について、一般の子どもたちよりも経験がありますもんね。だからこそ!今回はあえてその色彩について、もう一歩踏み込んでみよう、という試みです。「分かってる」「知ってる」とついつい思ってしまいがちだけれど、ほんとのところ、私たちはそのものについて、どのくらい知っているのでしょうか。「テレビで見た!」「教科書にのってた!」いやいや、そんなことではなくてですね、頭では十分わかっているはずのことも、実際にしてみると、「へえ〜!」とか「うわわっ!」みたいになるでしょう?本物の世界は、発見や驚きの連続です。
身近なところに情報はたくさんあるし、調べるのも教わるのも容易になった今、自分が「いかに知らないか」をわからせること、つまり頭と心を活性化させていくことの方が大切なんじゃないかと思います。
もちろん、先生たちも色彩について、全てを知り尽くしているわけではありません。なんてったって、今回は画材の素の素である、顔料からの取り組みですからね。科学的に解明されていないところもたくさんありますし、色に対するセンスはみんなそれぞれ違います。答えはないし、自分で決めなくてはいけない。もっと知ろうとして掘り下げて考えていくこと…つまり工夫したり、原因と結果の結びつきを考えることで、素材そのものに入り込む経験ができるのでは、と考えています。
さてさて、えふでプラスというだけで、教室の子どもたちは「先生、今回もたいへんなの?」と聞いてくるようになりました。(しかし不思議と目はキラキラ。)そりゃそうだ、ハンパじゃないぞ!ただし、がんばるのが苦にならないのが才能だと言い続けてきたまほうの絵ふでですから、今回もただの苦行ではなく、「自分のやった分しかできないたいへんさ」、裏を返せば、自分でがんばった分の手応えは付いてくるわけです。最終的には画材づくりというかたちで、自分だけのオリジナルセットを持ち帰る予定。もちろんがんばった人にはがんばったなりの喜びがあるものと思われます。
そしてひとつ、良い機会なので書いておきましょう。授業にも、えふでプラスにも、おうちでする作品づくりにも、どんな制作でも失敗はつきものです。しかし良い失敗と、悪い失敗というのがあります。意味不明(理解不能)な失敗は、後になかなか活かされない。ただ残念。がっかり。しかし予定外の結果が表れたときに「なぜ」「どうして」を考えて、「なるほど」に結びつけられれば、それはたいそう良い経験になるでしょう。悔しくたって、長い目でみると、それはある意味健全でたいせつな感情なんです。えふでのプログラムは、隅から隅まで完璧に間違いなく失敗しないというレベルまで準備することももちろん可能です。(そしてその方が現場の指導は数倍楽です。)でもそれって、長い目でみると、子どもたちの成長には何の役にも立たないことが多いですよね。だからあえてちょうど良い引き加減のところまで準備をしておく。あとは現場にいる全員が(子どももおとなも)必死になる!毎回、それなりに覚悟は決めて挑んでおります。
さあ今回のえふでプラスも…たいへんだぞー。つらいぞー。それでも「わかってる!」「やってみたい!」という勇敢な子どもたちよ。よいぞ、今できる最大限のちからで体当たりするがよい!
原体験
自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ。そんな文章を読んだことがあります。
例えば15歳のあなたは15÷3=午前5時。9歳のあなたは朝方の3時。3歳のあなたは…ああ、今日が始まったね、という時間だ。
はじめの方のことって、すごく大事だよね。
小さな子どもがイチゴを一粒食べる。バクっと!それはそれは口を大きく開けて食べる。あー、なんかうらやましい。すっごく食べごたえがあるんだろうなあ。おむすび一個食べてるみたいな感じ?実際、大粒のイチゴを子どもの手のひらにのせると、おとなの手の大きさからいえば縮尺的にはほとんどおむすびサイズですよね。おむすびサイズのイチゴを口にむりやりつめこんでモグモグほおばるなんて体験、おとなになった今じゃありえませんよ!
たしかに子どもの時ってジュースが一本飲めなかったり、ラーメンとか丼ものとかどうしても食べきれなかったりしましたよね。たしかにワシも…とたまに思い出します。あと冬になると、子どもの手は小さいから、すぐ冷たくなっちゃう。おとながつないでくれた手が温かかったのは、単純に大きさの違いからくる理由もありますね。
こういった子どもの頃の感覚というものは、ほんとうに大きな意味を持っています。初めて見た海の波とか、山の夜の暗さなど、びっくりするくらい印象に残ったまま忘れていないこともあります。しかしそれは必ずしも正しい記憶ではなかったりする。例えば、古い家とか公園とかを訪ねてみると、長いこと抱いていた印象と違ってずいぶん小さいなって感じたこと、ありませんか?
ワシなんかは、ずっとむかしは深い森だと思っていて怖くてたまらなかった場所が、おとなになって気がつくと小さな雑木林で、横切るのに2分もかからないような広さだったり。大きかったという印象の近所の廃屋が、じつはちいさな小屋のようなサイズだったり。感じるものの大きさの感覚って、大人と子どもでこんなふうに違うことがけっこうあります。
そして逆に、子どもの頃にはできたのに、おとなになってできなくなるいろんなことっていうのは、実は体に関わる感覚も影響しているような気がします。子ども時代は経験も少ないから、いろんなことが「はじめての○○」だったりする。そして小さな体で様々な影響をビビットに受け止めて体当たりできたりする。
そういった意味では、まほうの絵ふでは原体験としてのアート体験の役割(の一部?)を担っています。子どもにとって初めての本格的なアートの体験が(はからずも)強烈なものになっているということは否定できません。おそらく世間一般のみんなが想像しているアートと、えふでの子どもたちが身をもって体験しているアートは、かなり違うと思うんですよね。
そういえば先日、とあるかた方からこんなことを言われました。『あの「四〇〇〇匹の犬づくり」の写真見ましたよ。楽しそうでしたね!』「いや、楽しくはなかったですよ」『え?』「あれはね、実際ひたすらつらかったんです。時間はどんどん押してくるし、数はなかなか増えないし。普通に考えたら、子どもが起きてちゃいけないような時間まで作らざるを得なかったんです。」『でもどうして子どもたちはあんなにがんばれるんですか?』「どうしてなんでしょうねえ」これほんとにそうなんです。えふでの子みんながすごく特殊なわけじゃないですし。ひとりひとりのがんばりがみんなに連鎖して、すごい結果を出しちゃった。そしてあのとき体験した制作は、後になればなるほど自分たちの中で、そして周りのひとたちの中でも重みを増してきた。「たしかに、あれはすごかったな」参加した子どもたち、いくつになっても思うでしょうね。えふでが考えてたのはひとつだけ、乗り越えなきゃいけない壁があるのは幸せなことなんだ、ということ。それって、単純に楽しいとかうれしいとかいうのとはまた違った種類のものでしょう。そんなアートの本質の一部分を体験できたことが、ひょっとするとまわりから見ると楽しそうに映るのかな。
そういう意味ではふだんの授業の内容もそうなんですよ。ひたすら描くことだったり、作り込みに対してのまっすぐさを非常にシンプルに追いかけたりすること。確かに制作にはいろいろ小難しいこともいっぱいあるけど、子どもの前にあれこれ並べて二の足踏ませてもしょうがないじゃん。かといって、子どもだから、と楽しそうなところだけちょいっとつまんで「よかったね〜」なんて適当な扱いをされても、子どもの方には何にも残らないですもんね。
こういった強烈なものがえふでの子どもたちの「アートの原体験」になるであろうことは容易に想像できます。そしてそれが他とは違うものであるということも、付け足しておきます。長く通っている生徒の中にはうすうす気づいてる人もいるかもしれないけど、えふでって、えふで以外の何者でもありませんからね。
一連のプログラムの中で、たぶんおとなが感じていることとは比べものにならないくらい、子どもたちはたくさんのことを感じ、学んでいます。その小さな体で、我々が想像もできないような、そして忘れてしまっているようなダイナミズムを感じていると思うと・・・なんかうらやましいぞ。 私はいま何時だ?なんて計算しているお母さんたち。ええと、だいたい午前十時以降のみなさんは、月一回ママ部でどうぞご堪能ください。午後の校長がお相手します!
2008年2月 『押忍!手芸部』北海道初上陸
まほうの絵ふで×押忍!手芸部展「おとなの無邪気VSこどものガマン」多くのご来場ありがとうございました。
いやー、すごかったですね。反響が。一般のみなさんをはじめ、大丸藤井セントラルの方や教育関係の方、報道陣のみなさん、それに美術館の方まで、関係者の皆さんがニコニコして楽しんでくださった展覧会でした。いやーやってよかった!
ことのおこりは書籍から。「押忍!手芸部日一男前(おっとこまえ)な手芸本」先生たちの間できゃあきゃあ言って回し読みをしたのを思い出します。もちろん校長もそのひとり。そのとき感じたのは…「ぬう。こやつできる。こりゃそうとうの実力者ぞな」それからしばらく押忍!の話題でもちきりだったのですが、なぜかご縁があってみんなで大人の食事会に。お会いしてみると想像していたレベルどころの話じゃないんです。部長が。ひとを引き付ける魅力、発想力。なにより全身からにじみ出るエネルギー!これは…言葉じゃ伝わらない!えふでのこどもたちに会わせるしかない!(もちろんママにも)そんなこんなでいろいろあって今回の展覧会が実現しました。オトナのお部活から生まれたキュートでラブリーでしかもすっごく貴重な作品を見せてくださった男前(おっとこまえの)手芸部のみなさん、本当にありがとうございました。こどもたちから「押忍!になりたい」との声多数。将来に期待大。です。
押忍!手芸部は「お題」とはせずに、楽しむことに集中することができるよう、注意深く、しかし直感的にずばっと切り込んでいます。そしてまほうの絵ふでは、アートスクールとして「お題」であるプログラムを考えています。子どもはみんな違いますし、年齢や経験によってもできること、できないことには結構開きがあります。しかし要ることの幅は変わっていくと思うのです。今回の展覧会でいえば、ワークショップでつくった実物大のマッチ箱と、アップルストアの前で描いたプールの絵。大きさはアリと象くらい差がありますが、根っこはは同じなんです。両方とも実物大でそっくりにしようって頑張ったんですよね。子どもが。そういった掘り下げた本質論を考えることによって、まっすぐで、わかりやすくて、みんながおもしろく感じる。そんなプログラムを生み出していきたいのです。たぶんそういったおもしろさは、こどものときはみんなが持っていた感覚なんでしょうね。
で、北海道初上陸となった押忍!手芸部のお部活。想像以上にすごかった!ワシらもそれなりに指導の場数は踏んでますが、今回のはさすがにぶっ飛びました。何てったって、みんなの目を釘付けにする石澤部長がすごかった!えふでで言うところの翻訳能力。お題となった手袋で作る指人形をを操る身振り手振りに加え、楽しい話しぶりにみんなの目が途端にキラキラ。一気に夢中にさせて、おとなも子どももワクワクさせてくれた…。先生たちも思わず「部長、すっげー!」あっぱれでした。
もう一つ驚いたのは、部活前、部長の取材陣への発言。「子どものワークショップは初めてです。今まで断ってきてたから。」え?まじっすか?…えふでのお願いには即答でここまで来てくれましたよね、と聞いてみたところ「えふではね。」とニッコリ。(!!)なな な んでー!どしてーっ!部長いわく、押忍!手芸部は子どもの発想力を目標にしているから、子どもに教えることはなにもない、と各方面のお誘いを謙虚にもお断りしていたそうです。「でもほら、えふではすごいでしょ?…話がきたからには勝負しとかなきゃ…というか今のうちに芽を摘んどかないとヤバいかな~って」と冗談まじりにニヤリ。おおぉ、部長を本気にさせた?!みんなえふでで良かったな!ワシもえふでになりたい…ってワシもえふで?ワシがえふで?んー。その辺よくわからんが、子どもの頃に部長みたいな人に会ってたら…とワシですら思います。えふでの子どもたち、今やほんとに羨望の的。
つくづく、押忍!手芸部に会えて良かった!すっごいし、しびれる。だけど初めて見たのになんかなつかしいような気もする…。えふではホンモノが好きなんです。
2008年2月 『押忍!手芸部』北海道初上陸
まほうの絵ふで×押忍!手芸部展「おとなの無邪気VSこどものガマン」多くのご来場ありがとうございました。
いやー、すごかったですね。反響が。一般のみなさんをはじめ、大丸藤井セントラルの方や教育関係の方、報道陣のみなさん、それに美術館の方まで、関係者の皆さんがニコニコして楽しんでくださった展覧会でした。いやーやってよかった!
ことのおこりは書籍から。「押忍!手芸部日一男前(おっとこまえ)な手芸本」先生たちの間できゃあきゃあ言って回し読みをしたのを思い出します。もちろん校長もそのひとり。そのとき感じたのは…「ぬう。こやつできる。こりゃそうとうの実力者ぞな」それからしばらく押忍!の話題でもちきりだったのですが、なぜかご縁があってみんなで大人の食事会に。お会いしてみると想像していたレベルどころの話じゃないんです。部長が。ひとを引き付ける魅力、発想力。なにより全身からにじみ出るエネルギー!これは…言葉じゃ伝わらない!えふでのこどもたちに会わせるしかない!(もちろんママにも)そんなこんなでいろいろあって今回の展覧会が実現しました。オトナのお部活から生まれたキュートでラブリーでしかもすっごく貴重な作品を見せてくださった男前(おっとこまえの)手芸部のみなさん、本当にありがとうございました。こどもたちから「押忍!になりたい」との声多数。将来に期待大。です。
押忍!手芸部は「お題」とはせずに、楽しむことに集中することができるよう、注意深く、しかし直感的にずばっと切り込んでいます。そしてまほうの絵ふでは、アートスクールとして「お題」であるプログラムを考えています。子どもはみんな違いますし、年齢や経験によってもできること、できないことには結構開きがあります。しかし要ることの幅は変わっていくと思うのです。今回の展覧会でいえば、ワークショップでつくった実物大のマッチ箱と、アップルストアの前で描いたプールの絵。大きさはアリと象くらい差がありますが、根っこはは同じなんです。両方とも実物大でそっくりにしようって頑張ったんですよね。子どもが。そういった掘り下げた本質論を考えることによって、まっすぐで、わかりやすくて、みんながおもしろく感じる。そんなプログラムを生み出していきたいのです。たぶんそういったおもしろさは、こどものときはみんなが持っていた感覚なんでしょうね。
で、北海道初上陸となった押忍!手芸部のお部活。想像以上にすごかった!ワシらもそれなりに指導の場数は踏んでますが、今回のはさすがにぶっ飛びました。何てったって、みんなの目を釘付けにする石澤部長がすごかった!えふでで言うところの翻訳能力。お題となった手袋で作る指人形をを操る身振り手振りに加え、楽しい話しぶりにみんなの目が途端にキラキラ。一気に夢中にさせて、おとなも子どももワクワクさせてくれた…。先生たちも思わず「部長、すっげー!」あっぱれでした。
もう一つ驚いたのは、部活前、部長の取材陣への発言。「子どものワークショップは初めてです。今まで断ってきてたから。」え?まじっすか?…えふでのお願いには即答でここまで来てくれましたよね、と聞いてみたところ「えふではね。」とニッコリ。(!!)なな な んでー!どしてーっ!部長いわく、押忍!手芸部は子どもの発想力を目標にしているから、子どもに教えることはなにもない、と各方面のお誘いを謙虚にもお断りしていたそうです。「でもほら、えふではすごいでしょ?…話がきたからには勝負しとかなきゃ…というか今のうちに芽を摘んどかないとヤバいかな~って」と冗談まじりにニヤリ。おおぉ、部長を本気にさせた?!みんなえふでで良かったな!ワシもえふでになりたい…ってワシもえふで?ワシがえふで?んー。その辺よくわからんが、子どもの頃に部長みたいな人に会ってたら…とワシですら思います。えふでの子どもたち、今やほんとに羨望の的。
つくづく、押忍!手芸部に会えて良かった!すっごいし、しびれる。だけど初めて見たのになんかなつかしいような気もする…。えふではホンモノが好きなんです。
2008年1月 まほうの絵ふで×押忍!手芸部 展
まほうの絵ふでがまたまたすごい展覧会を開催します。その名も「まほうの絵ふで×押忍!手芸部展」。押忍!手芸部のおとなたちの無邪気さと、まほうの絵ふでの子どもたちの限界スレスレチャレンジを、展覧会でガチンコ対決させてみよう、という試み。ふつうはね、「こどもは無邪気、おとなはガマン」って思うでしょ。ちがうんだなー、それが。いっそのこと「まほうの手芸部」「押忍!絵ふで」の方がいいんじゃないか、という意見もあったくらい。ふふふ、その辺りをちょっと期待してほしいぞな。
校長はだいたいいつもどんな人に対しても、分け隔てなく同じことを言っています。「がんばった分しかできない。ときにはガマンも必要。」押忍!の部長にもそう言ってみたところ、「押忍!手芸部は…できることしかやらない、やってもできないから」!!!
ワシはこの一言に、しびれてびりびりよ!ワシの言ってることと正反対に聞こえるかな…しかし本質を考えると、実は言っていることがほとんど同じ!
部長が言うには、手芸の上手な人が部活に参加して、わざとぐちゃくちゃに縫うなんてのはぜんぜんちがうのだそうです。それはただのいいかげん。押忍!手芸部の部員はうまく作りたくても素人だからなんせ不器用!縫い目なんか曲がっちゃうし、正直へたっぴに見えます。でもみんなものすごく楽しくて、ものすごく真剣なんだそうな。そうしてできたものはすごくキュートでラブリー、妙に見る人のこころを揺さぶります。ぬう、校長にはその中の熱いタマシイが見える!何を守ろうとしているのかがわかるのです。すげえぜ押忍!手芸部。強者じゃ!ワシは、えふでのみんなにならそれがわかると思ったぞな。これだけたいへんな制作、いつもがんばってるんだから…近くで見ているパパ・ママたちにも、キュートでおちゃめな顔の向こう側にある、笑っちゃうような真剣さに共感できるにちがいない、とな。
そんな、ちょー・ミラクル・ウルトラ・クリエイター石澤部長は、親子造形体験の「押忍!手芸部の部活動」や、アップルストアのえふでプラス・作品上映会などでみなさんの前に登場します。もうね、あんまりすごくてまばたき忘れるぜ!目薬もってこい!
さらにまほうの絵ふでもがんばります。はっきり言って無謀な企画、展覧会会場で行う日替わりワークショップ。その名も「まほうの絵ふでガマンワークショップ」!たくさん作るガマン、細かいガマン…しまいには飲み込み注意、爆発危険ときたもんだ。パパママたち、一般のみなさんも、えふでの子どもたちがなぜあんなにたのしそうにガマンできるのかを垣間みるチャンス。すごいヤツになりたければ…毎日ガマンしに来い!
2007年12月 冬のえふでプラスへようこそ
地球温暖化が加速する中、今年も無事、北海道に冬がやってきましたね。大人の方にとっては数十回目の冬、子どもたちにとっては…、一回一回がまだまだ貴重な冬!「寒いのはにがて…」と嫌がらずに、せっかくの年末年始を明るい気持ちで過ごしましょう!
ということでこの冬の絵ふでプラスはみなさんに明るさをプラス!いつの間にやら全国各地のみなさんがえふでの子どもたちに注目する一大イベントに成長しましたが、「体操」「特訓」「笑い」と聞くだけでププッと吹き出してしまうような、なにそれ〜のテーマ群で、キッズコースからデッサンコースまで、まほうの絵ふでのすべての子どもたちを対象にしたプログラムをご用意しました。そしてなんと制作内容は…初の映像作品に挑戦!イマジネーション、身体能力、流れや動きをつかむ力など、ひとあじ違う学びにチャレンジです。いつもに増して、冬休みが待ち遠しい!
子どもたちのがんばりが全国各地で話題になっている絵ふでプラス。いや本当なんです。恐れ多くも凄いデザイナーさんから「札幌が熱い(?)」と言われるし、このあいだは鳥取のかたから「すごいですねー」とか海外からも「ウエブ見てビックリシマシター」なんて!そう、ありえない!ってくらいの子どもたちのがんばりが、各方面いろいろなかたたちの期待を集めて、さらに「なにか一緒にやりましょう」って協力していただける。子どもたちの可能性に対する期待がこんなに大きいなんて!これって本当にシアワセなことですよ。そして今回の絵ふでプラスはまたしてもさらに、さらにパワーアップです。
絵ふでプラスのキッズチャレンジのテーマは「体操」。
作品を作ることを通じてからだをうごかすこと、からだを使うことを意識できるか、がねらいです。むずかしい言い方をすると「身体性」が大きなテーマなんです。たとえばプロゴルファーさんは、体の動かし方に対して 100とかのチェックポイントがある(!)なんて言うそうです。そこまで大げさじゃなくても、からだを動かしているっていうことってほんとはすっごくふしぎ。これは理屈ぬきにたのしいプログラムになる予感です。そして、少しづつ自分と他人の違いを発見していくこの時期のキッズの成長に、すごいシゲキになる!そんなことを考えて組んであります。
年明けすぐデッサンコースの特別絵画講座。テーマは「特訓」!
つらい…かもしれない!?そう、ちまたで挫折者続出の「なんとかブートキャンプ」並みかも知れません。けれど確実に絵がうまくなる「えふでブートキャンプ」ならイケるさ!きっとがんばれる。そんな秘密の特訓をするのだ!ふだんの授業ではできない、ぎゅっと凝縮された二日間。例えていうならやはりこれもキッズとは違う意味での身体性でしょうか。ドローイング(線で絵を描くこと)を通して、自分のできていること、できていないことを見つめ直して、さらなる実力アップを目指します。具体的に、できなかったことをできることに変えるためにどう努力するか。どうやって知らないことに対する答えを、自分の知っていることを使って導きだすか。そんな「考え方の仕組みを学ぶ」ことができるように考えられた特別講座です。ものごとの見かたが大きく変わってしまうかも!ささ、ワシを倒してゆくのだ!
ワシも倒されないようにさらにがんばるのだ!よくわからんけど。
ジュニア・デッサンの両クラス対象のスペシャルプログラム。テーマは「笑い」
これは本当に大変なことに!日本一強い女「モビー坂上」!そして鳴り物入りで北海道初上陸「押忍!手芸部 石澤部長」!えーと(ちょっと小声で)「ワシです校長」!少数精鋭のえふで会員(早い者勝ち)と共にくり広げられる濃密な八時間がやってきます。忘れられない経験が押し寄せるこのプログラム。自分の持てる能力全開で、各クリエイターとガチンコでぶつかり合う。こんな経験ありえない!
そして大トリはこの成果の発表会が控えています!クリエイター御用達のかっこいいコンピュータでおなじみのアップル。その総本山「AppleStoreSapporo」での発表会(きんちょーします)。そしてクリエイターの砦、画材・もの作り用品の専門店「大丸藤井セントラル」での展覧会・ワークショップと、こりゃまたみんなにうらやましがられることまちがいなしの、ど・ど・どとーの冬のプログラムです。いやこ、これは・・・本当に10年後にはすっごい才能が、さっぽろからぽこぽこ生まれて巣立っていくかも知れませんね。どーしましょ!嬉しい悲鳴きゃーっ!!
今回は参加定員が全回かなり少なめです。予約申し込みも取りにくいんですけれど・・・ぜひ参加して、大きく成長して下さい。がんばれ!えふでのみんな!
2007年11月 学びの環境
子どもの傑作はまほうの絵ふででつくられるのだ!なんて大きな声でいってみたいものですが、実際、良い作品ができるのであれば、それは別におうちでも、学校でも、近所の公園であってもいいのです。ましてや学びとしてのアートの観点からいえば、ココロの養分になる刺激なら、どんな場所であっても、そこがそのまま学びの場です。その意味でいえばアートはめぐまれているのです。もしこれがフィギュアスケートであったなら、用具を売るひと作るひと、明るい照明も必要でしょうし、氷の施設の維持管理など、色んなひとの努力なしには練習すら始められませんものね。運良く近所に厚い氷の張るみずうみがあったとかじゃないと始められないというのでは、まずスポーツとしての発展が難しくなってしまいますよね。そういえばこんな意見を聞いたことがあります。子どもが始められる球技は、ボールが大きければ大きいほど良いのだそうです。理由は…なくなりにくいから!ひとつのボールで大勢が遊べるならそれに越したことはなく、その方が裾野が広がりやすいんだとか。あと、玉が小さくなればなるほどお金のかかるスポーツなんだそうです。そういわれてみればそうかも!
さて、球技ではないですが、アートもその意味では確かに裾野が広いかも!広場に棒で線を引いても絵は描けますし、朝冷えて曇った窓ガラス、砂浜の足跡、うっすら降り積もった雪…とにかく特別な道具がなくても絵は描けます。ただしそれではすごい傑作でも後には残らないのですけれど…。
アートを学ぶという意味では、理想の環境はどうあるべきなんでしょうか。草木が育つには環境が大事です。日が当たって、適度な水分があって、きちんとした土がある。そのバランスが必要です。たとえば「学校」は「校舎の場所」をさす言葉だと誤解されがちですが、やはり教えるひと、教わるひと、そしてそのひとたちが集まる場所。この三つが集まって学校ですよね。まほうの絵ふでも、教育の場として、教えるひと、教わるひと、そしてそのひとたちが集まる場所、この関係を非常に大切に考えています。そして実はお父さんお母さんも、教えるひとと教わるひとをつなぐ重要な存在です。そして子どもたちには、絵ふでをわくわく楽しみにしてもらえるようがんばっています。わくわくするから、そこから得たことがらを大切にする。先生ががんばっているのが子どもに伝わる。伝わったことに、さらに自分の感じたことを足して投げ返す。それがとなりで見ていた別の子に伝わる。良い刺激は、化学反応みたいに次から次へとまわりに伝わり、自分が感じたことがらのパスを出させる。そんなクリエイティブの連鎖反応がある教室でありたいですね。その場がいきいきと感じられるためには、その中にいる自分がおもしろがるのがいちばんです。おもしろさを探すくふうがあれば、さらに深いところでおもしろがることができます。そしてその先で、スポーツ選手の勝負のような、より厳しくすごい世界を選ぶこともできます。
制作の環境はつくるもの、というのはみんながいう言葉ですが、実は自分もその環境の中に含まれているひとりなんだというのは、わかっているようで見落としがちなことなんです。授業は受けるものだ、と思いきや、実は自分も環境を作り、何かしらの影響をかたち作っているともいえるんですね。なんとなくであってもそれに気づくと、自分の「学び」が変わっていきます。
2007年10月 アートの道はいばらの道!?
「うちの子、美術系の学校に進みたいと言ってるんです。」そんな質問&ご相談が多い最近のまほうの絵ふで。ああ、多い時にはほぼ毎日、続いていました、そのようなご用件の電話。な、なぜ?
流行ってるのかなぁとも一瞬思いましたが、そんなわけはありませんよねえ、このご時世。「自分が望むものをさせたい」とは親御さんに共通するお気持ちのようですが、ほんとのところではよくわからず多少不安の残るアート・芸術方面への進学。そこで今月は「進学特集」として、みなさんからよく寄せられる、8つの質問を挙げてみました。
まだお子さんが小さなご家庭でも、ご参考までにどうぞご一読を。
そしてそしてその質問にお答えいただくのはもちろんこの方、「ワシです、ワシ」の校長先生。

それでは校長、宜しくお願いします。
1.良い美術系の大学ってどんなところでしょうか。
う。いきなり難問ですね。この質問については、専門課程に進むための大学の選び方、ということを質問されているのだと思いますが、まずちょっと前提になることから。えふでは、いわゆる造形教育の入り口として「美術を通した教育」をするアートスクールです。ですから、総合的な学習に近い性質を持っていまして、学びの尺度に「美」を使っているということになるんです。一方、大学など専門課程は、趣味とか自分の疑問を解決するというより、その次に「仕事」ということが出てくるんです。そうすると少しややこしくなってきて、独自の仕事をするためには、お手本を超えていかなくてはいけない。→そもそも教育が成り立つのかあやしくなってくる。といった矛盾が出てくるんですね。デザインなどの世界では、面白い仕事をするためには、面白い仕事が依頼されるところに自分を置くことが必要になります。その意味では関東圏の美術大・芸術大はやはり有利と言えるかもしれません。しかしさらに現実には、大学というより、最初の職場(デザイン会社や広告代理店)などで、どのように自分が成長したのかが大きなポイントになるようです。そう考えると「ご縁のあるところに選ばれる」よう、魅力あるひとでいてほしいと思います。「その魅力あるひと」が多く集まる場が、学びの場としてもチャンスを運んできてくれるような気がします。
2.どんな勉強をすれば良いのでしょうか、またいつ頃から始めたら良いのでしょうか。
なにもかも勉強ですよね。ムダな経験はひとつもありません。いちおう美術大学の受験のための「トレーニング」に関しては、ムカシの偉いひとが「1000時間」トレーニングせよ。と言っています。これはだらだら絵を描く時間とか、絵のことを空想する時間は省いて、集中して制作する時間ですから結構大変です。一日3時間雨の日も風の日も集中すれば一年間。やってやれないことはないでしょう。この1000時間があったなら、基本的に日本国内で射程距離に入らない美術大・芸術大はないと断言できます。あと、始めるタイミングですが、ココロとからだのバランス的には、早く始めるにしてもに14歳が一つの目安になりますが、世間的には17歳くらいからが多いようです。もちろん本人が4歳から野望を抱くことに対し、少しも非難されるいわれはありません。
3.浪人は避けたいのですが。
避けましょう。
現役生(といういいかたをしますが)で入学して、年上の同級生(ややこしいですが)を呼び捨てにする根性を見せてください。実際、浪人生多いです。
いろいろな見方があるのも事実です。美術・芸術大学は、世間一般の常識から外れた人外魔境でもあり、その非常識の度合いがまたクリエイションに作用しているという現実もあります。大学は教えてくれる場所というより、つかみとる場所といった側面があります。そして大学の4年間はほんとうに短いものです。引退するスポーツ選手のように、「その後」が長いのです。合格してよかった!と言っているうちにすぐ卒業です。その点、ただ絵のことだけを考えていられる浪人生は、失うものもありますが、そこでしか得られないものもあるのは事実です。特に難関大を目指すとき、現実的に親御さんにも、ある種の覚悟が必要になってしまいます。
4.卒業後どんな職業があるのでしょうか。
道は無限にあります。ただ、国家公務員一種や医師免許などは別のルートからの方が苦労が少ないような気がします。
5.大学受験のために小中学生の頃からできることはありますか。
朝ご飯をきちんと食べる。体力をつける。本をたくさん読む。ってえらそーに言えた義理じゃないです。わしに聞かないでください。だいたいからしてたいていのひとは大学一度入って「先生」なんだも。たいして経験ないですよ。今を必死に生きてくださいね。お父さんお母さんが、何か自分の限界にチャレンジした経験をお持ちなら、小中学生のとき、何をしたか、何をすればよかったか、何を親に言われるのがいやだったか、そしてそのときの自分がどんなにいやでも、言われるべきだったことは…と考えて子どもにいやがられてください。
6.まほうの絵ふでで大学受験の指導をしてもらえませんか。
してもらえませんよ。
7.子供の方で、今いちやる気が起きないようなのですが…
昔のひとがいうには、牛とか馬とか水場に連れてくのはできても、飲む気がなければ水は飲まないものなんだそうです。努力には「欠乏感」がいるような気がします。みんな豊かだからなあ…
8.うちの子、向いていますか?
えー、校長は実はマッサージがすごく上手なんです。かといって女性にすればセクハラ、男性にすればなにか勘違いされるかも。と、誰にする機会があるでもないのですが、される側にまわるときよく思うんです。「あー、わしがもう一人いれば…」
このあいだ、仕事の待ち合わせで、先方の都合で急に時間があいて、待ち合わせの場所にたまたまあったマッサージへ。そんなときすごく上手なお兄さんにあたって、しかも手が温かい。夢見ごこちで校長が考えたのは「うーむ。天職。このひとお寿司屋さんにならなくてよかったなー」
さて、才能については、みんな誰かに背中を押してほしいし、責任をとってほしいんですけど、恋愛(?)と一緒で、可能性はたくさんあるが、まわり(相手)に求められるかどうかは、結果論でしかありません。これについてはヒロトさん(当時ハイロウズ)が対談ですごいこといってます。「みんななりたいっていうけどココロの飾りなんだよ。死んでもレーサーになりたいって奴はそう言ったとき、もうレーサーなんだ。だってならなきゃ死んじゃうんだもん!」はい。わかるようなわからないような…
2007年9月 ただのいぬへの挑戦
前から思ってたんです、百とか、千とか、子どもたち簡単に言い過ぎなんじゃないかって。そりゃ子どもにとっても、百円は安いのかもしれない。イマドキの小学生なら、お年玉は1万円をゆうに超すのかも知れません。選挙や集客で100人・100票って、少ないと感じるのかも…。でも、実際に作ってみたらびっくりでしょう、同じ作品を100個とか、を1000個とか。ばってんマークでもいいからを100個、描いてみてごらん!たいへんですよ。
それに工業製品が溢れてるせいもあるのでしょうか。機械でカタカタ作るのとはちがうんですから、もともとあったもの、職人の手仕事なんかを、「ひゃく」とか「せん」とか軽く言われると困るのです。そして北海道民、5632133人(平成17年3月31日時点)!ひえええ。みんな簡単に口にしますが、ひとりひとりに顔があることをリアルに想像すると…。数ってすごいものです。
算数のじかんにも、子どもたちに「十の位、次は百の位」なんて簡単に教えすぎです。その中身は何なのか、子どもたち、全然感じていないし想像すらしていないです。そんな意味で「数字」にまつわる授業、えふでなりに想像力とリアリティを刺激するようなプログラムができないものかなあと、長年、考えを寝かせていました。
今回、「4000匹のただのいぬ。」に参加した子どもたちは、数字のスゴさ・怖さをよおーくわかったと思います。犬に関係ないところでも、ニュースなどで「4000」という数字が出たら、ビクっと反応するでしょう。4000でこうなら、「ゴマンとある」なんて、…気絶しちゃうよ!
一方「ただのいぬ。の肖像」では、できると思っていることとやれていることのギャップの自覚を出発点に、ひとつひとつ自分の観察の質を高めていくことが目的でした。いつもの静物とはちがい、相手は生き物ですし、犬はこの年齢の子どもたちにとって思い入れのしやすい題材です。子どもたちにも言ったのですが、運転席と助手席と、見える景色は一緒でも、自分が決定を下してコントロールするリアリティは、伝えられない。自分の感じたことしか見た人に伝わらないよって。まさに今回は一歩踏み込んだ状態での「自分の」制作にこだわったんです。ただ絵を描くだけじゃなく、自分が「何を見たのか」を伝えるために、描く。「ただのいぬ。の肖像」に参加した子どもたちには、それが見えて来たんじゃないでしょうか。
今回の絵ふでプラスでは、「ただのいぬ。」プロジェクトと、それをめぐる制作を通して、ものごとをできるだけ掘り下げて考えてもらいたかったのです。なぜ4000なのか、なぜ「ただのいぬ。」がこんなにも多く存在するのか…。犬の問題に限らず、今回の問題提起には社会的なもの、身近な問題、様々なものごとに共通する点があります。本当の意味でアートはそんな問題の前で何ができるのか。大人がおしつける答とは違い、子ども自身が時間をかけて、じっくりと考えてくれたらいいなと思います。
そして、そんながんばる子どもたちの様子をテレビや会場の作品から覗き見て、大人たちの刺激にもなってくれたら、というのが今年の絵ふでプラスでした。え?テレビを見逃した?ありますよ、本部教室にDVDがございます!それぞれの局で切り口が違いましたが、なんかみんなカッコイイ感じがして「こいつら、なかなかやるなー」と思っちゃいます。絵ふでの子どもたちが次の時代をどんなふうにしていってくれるのか、期待がかかりますね。今回はいろんな意味で、教育には想像力とリアリティがとても大切なんだなあとつくづく実感しました。
2007年8月 アートのちから
スポーツとコンペテイションの違いのようなものなのですが、たとえアマチュアだとしても、自分の楽しみのために行うことと、他人に見せること、見られることを前提としての行為との間には、大きな差があります。美術の場合においては、ある意味いつか踏み越えていかねばならない問題です。子どもの作品はどなたも好意的に見てくださいます。しかしそこには子どもらしいから良いのだという、ある種の思い込みもあります。ある年齢以上の制作では、時に厳しい批判や、違う価値観と戦わねばならない場面も出てきます。
今回、「まほうの絵ふで×ただのいぬ。」では、生徒の経験や能力、時間などの物理的な条件を引っくるめた各個人の持つさまざまな限界へのチャレンジを試みます。
ではここでひとつ問題を。「だれもいないところで木が倒れた。木が倒れる音はしたか、しなかったか。」むー。なぞなぞみたいですが、みなさんはどう思いますか。木が倒れたのだから音はしたはずだ、いやいや、聞いた人がいないのだったら、音なんてないのだ。
デザインやアートの場合はこんな考えもあります。「見る人がいて、そして見るひとに影響を与えて初めてアートは成り立つものだ。」今回、子どもたちの作品は、皆さんに届くでしょうか?
2007年7月 ただのいぬ。
この夏、いつもの絵ふでプラスからより幅を広げていこうと、「まほうの絵ふで×ただのいぬ。」としてプロジェクトを行います。犬が大好きな方も、「私は猫派」なんて方も、とにかくみなさまに一度見て頂きたい。そして子どもたちには見たり聞いたりするだけでは、ちょっと惜しい…と、犬を題材にしたえふでプラスで作品づくりをしていきます。
ひとつは『ただのいぬ。の肖像』。タイトルを見ただけでもわくわくしてしまいますが、今回、まさにモデルは犬なんです。デッサンコースのみなさん、未開拓のジャンルである動物の絵ですが、その分新鮮な発見が多いはず。楽しみですね。
次は『4000匹のただのいぬ。』こちらもタイトルがすごい。なんと中央区のビルに泊まりがけをして、えふで流「ただのいぬ。」を展開していきます。制作終了後、みんなの作品である犬たちの行方は…。乞うご期待!
念のためみなさんに予めお断りしておきます。これは単なる動物愛護や、動物の処分を批判するだけのものではありません。えふでとしては、拳を振り上げて「いのちをタイセツに!」などの活動は、正直言って苦手なんです。だって、そう言いつつ、平気な顔してステーキ食べたりする自分を想像すると…あああ、ダメじゃん自分!って思ってしまう。
「ただのいぬ。」とは保健所や動物愛護センターに集められ、飼い主が現れなかった犬たち。その多くが悲しい運命を辿りますが、一部が動物愛護の観点から希望者に無料で譲渡されています。つまり名もなく値段もない「只の犬」であり「無料の犬」という意味で、ラーメンズの小林賢太郎氏による命名です。
「ただのいぬ。」の発信者である服部さん・小山さんの口からは、「いのちをタイセツに」とか「みんなでこうしよう」というような、結論らしい結論は、一切出ていません。書籍を見て頂ければわかりますが、受け手である私たちは、まずモヤモヤとした何とも言えない気持ちに駆られます。犬たちの写真はまるでペットのカタログのような愛らしさがあり、小山さんの詩も、もし違うところで出会ったら、おそらく不要犬や譲渡犬について語っているとは気づかずに読んでしまうでしょう。彼等は「そっと」その現実を提示しています。
ある調査によると、平成15年度、全国で「処分」された犬の数は約16万頭、一日あたり450頭の犬たちが人の手により命を絶たれている計算になります。では私たちの住む札幌には、どのくらいの処分犬がいるのでしょうか。そもそも実際に登録されている犬以外にも、未登録犬は予想以上に多く、さらに、北海道全体でみると…到底頭ではリアルに想像できない数に上ります。
そんな悲しい現実がある反面、幸運にも里親が見つかり、難を逃れた犬たちもたくさんいます。そして、飼い主から大切な家族の一員として愛されている犬たちも、身近なところでたくさん目にします。
では、何がこの犬たちの運命を分けているのでしょうか。飼い主が…社会が…どんなに正論らしい正論が出たところで、ひとりひとりが考え、気づき、自分から変えていこうとしなければ、世の「ただのいぬ。」たちが「ただのいぬ。」でなくなる日は来ないでしょう。そもそも、犬や猫の処分に関する法律だって、私たち人間が決めたこと。施設の方たちは、その役を引き受けてくれているに過ぎません。
結論の出ないことを、大人の側で「こうやって考えよう」と押し付けることをせずに、子ども自身の力で考えて欲しい。ですから、モヤモヤとした現実を、そのままポンッと子どもたちに投げかけたい。そんな風に思っています。制作でモデル犬と長い時間向き合ったり、4000匹のいぬを目の前にして、子どもたちが何を思うのか。ひたすら考えて考えて、自分の中に「何か」が芽生えてくれれば、「ただのいぬ。」プロジェクトの願いは通じたことになります。そしてえふでで美術を学ぶ子どもたちにはぜひ、この「考えて考えて、考えてもなかなか答えがつかめない」という経験をしてほしい。つかむものもあれば、作品として昇華するものもあるのかも知れません。実はこれが一番のねらいです。なぜなら、アートの本質がまさに、「ひたすら答えを探す行為」そのものですから。それぞれどんな成長を見せてくれるでしょうか。
2007年6月 「パンがなければ、おかしを」!?
えー、ある日朝起きたら、なんとなくお蕎麦が食べたくなりました、なんとタイミングの良いことに、夏になるにはまだまだ早い良く晴れた日曜日でしたので、しまってあった種をまいて、虫が食べてしまわないよう、ほかの種類の草が養分を吸い取ってしまわないように心配し、秋に刈り取って干して、実をとって、乾燥した実から殻をとって、すりつぶして粉にして、水と混ぜてきちんと練って薄くのし、なるべく細く切ってゆでて、大豆から作っておいたしょうゆのツユをつけて…
すっかり食欲をなくしたというか、最初の「お蕎麦が食べたい」という気持ちを忘れてしまったようなある日、ようやくそれはでき上がります。これはかなり辛いですね。皆で分業するか、粘り強く壮大な趣味人の生き方をつらぬくか、きっぱりあきらめるか。そんな気分になります。
だれですか!「お蕎麦がないならケーキを食べればいいのに」なんていっている人は!
そんなことをいっていると、また小麦とイチゴと牛の小屋をつくるところからお話しを始めますよ!あれ?砂糖も必要だ!
さて至極当たり前のことですが、この情報化社会であっても、パソコンでお蕎麦を作ることはできませんし、作り方を調べてもおなかがいっぱいになることはありません。しかしそれより気になるのが、その便利、手軽、スピードという言葉の影で、モノが育つにはあるスパンの時間が必要だということそのもののリアリティが失われていくことです。教育の世界においても、辛いことをさせない、我慢させない、競争させない、挫折させない……そして、みるみるわかる、かんたん、できる、自信がつく…そんな言葉ばかりが並びます。「やらなければできるようにならない」とか「やった分しか伸びない」「できた分しかわかっていない」などの辛口の言葉は敬遠されるのが実情です。しかし絵ふでは高学年の生徒にこうはっきりということがあります「見たようにしか描けないし、描けているようにしか見えていない」。
ものごとの本質的な理解には時間と経験が必要です。もちろん教える側の励ましや、動機付けが大きく影響しますが、「苦労をさせない」ことと「(目的のための)努力が苦にならない」ことを混同してしまうことは避けたいものです。まして、柔らかく煮たものを、さらにふーふーして、やけどしないようにしてからあーんして食べさせる。というようなことをくり返しておきながら、どうも最近の子どもはたくましさがない。などと責められては、やる気もなくなります。つらいことを無理強いすることを肯定する訳ではないのですが、子どもの全能感(ボクはなんでもできるんだ!)をこわしては積み上げることも、教育のプロセスの中で大切だと思うのです。つまるところ、それがたくましさであり、真の力になるのではないでしょうか。あと蛇足なのですが、曾野綾子さんの著作によれば、貧困と無知が生む最も残念なことは、冒頭の例でいうところの、蒔くべき種子そのものを食べてしまうことなのだそうです。
2007年5月 世界を変えるチャンスにかける?
天才は、世の中を大きく変えていきます。これはすばらしい事実です。しかし私たちは同時に、天才というのは本当のほんの一握りの人間だという現実も冷静に見つめなければなりません。
スティーブ・ジョブスに「人生の残りを、砂糖水を売って過ごすか、世界を変えるチャンスに賭けるか?」と口説かれたジョン・スカリーは、大企業のペプシコーラを離れ、当時ベンチャーと言えるぐらいの規模でしかなかったアップルコンピュータへ転職してしまった。なんて伝説になっている話もあります。いつの時代も私たちは、天才たちの作り出す物語に憧れ、勇気を与えられ、導かれて来ました。
さて教育によって天才を作ることは可能でしょうか、それとも不可能なのでしょうか。
現実的には、天才を教育で伸ばすことは出来たとしても、作り出すことは出来ないのかもしれません。もっと現実を見つめるなら、本質的には才能は育てることはおろか、見つけ出すことしかできないとさえいえるでしょうし、もしも天才が私たちの概念から遥かにかけ離れたビジョンを持っていたとしたら、その才能を認めて見つけだすことすら難しいなんていうこともあるでしょう。なにやら夢の無い話になってしまったような気もしますが、教育にできることにはある種の限界があるというのは否定できない事実です。
それでもあえて問うとすれば、教育にはどんなことができるのでしょう。美術教育に関していうなら、意欲に応え、学ぶチャンスを与える。努力を認め励ますことにより自信を持たせ意欲的なチャレンジの後押しをする。そんな可能性があるのではないでしょうか。 独創的な取り組みだけでなく、たとえば今あるものをくもりの無い目でとらえ、組み直すこと。それも大切なクリエイションだと思います。歴史を知り、先人の努力を知り、失敗からも成功からも学んでいくこと。頭で考えるだけではなく、実際に体を動かしてリアルな現場からも学ぶ。そんな姿勢こそが大切なのだと思います。そしてそういったことの重要性を知ることが美術を学ぶ意味なのではないでしょうか。
蛇足ですがビル・ゲイツはレオナルド・ダ・ヴィンチの本物の作品を持っているのだそうです。すごいですねー。とある現代美術作家曰く、日々決断を求められる天才は、「アートの天才が見たビジョンに、進むべき方向を尋ねたくなる時」があるのでは?とのことです。むー。
2007年4月 アートは教えちゃいけないもの?
私たちより詳しいかたの方が多いと思いますが、基礎教育で大変著名な陰山英男先生というかたがいらっしゃいます。陰山先生がまず手を入れたのは、朝ご飯を食べて登校するなど、生活の型をしっかりつくること。食事のバランスを良くして、頭がしっかり働く、そんな下地をつくること、だったといわれていま す。考えてみれば当然にも思えますが、百ます計算や、音読、暗唱など、反復の効果は、まずそんな「下地」があってのことなのです。もちろん様々な批判 が、先生に浴びせられたといいます。「詰め込み過ぎだ」「競争させるとおかしくなるのでは」
しかし明治大学の齋藤孝先生も反復の学習を評価して「学ぶことは楽しいのですよ。子どもの限界を親が決めるべきではありません」そうおっしゃいます。
さて、私たちは美術教育を通じて、ものを作ることの経験値、考え工夫することの大切さを学んで欲しいと願っています。そして、美術教育に真剣に取り組 んでいる先生方や、最先端で努力するクリエイターの方々から高い評価を受け、たいへん強く褒めていただいています。最も嬉しかったのは、年明けの展覧会 で、それまで面識のなかった著名なグラフィックデザイナーのかたから「自分が今子どもならすぐにでも通いたい。というより(大人である)今通って制作し てみたい」と言っていただいたことでした。
しかし高い評価をいただく反面、実は陰で批判をされていることもあるのだそうです。心配して教えてくださった人いわく「教え過ぎなんでしょう。デッサ ンが小学生にあんなふうに描けるわけないじゃないですか」
…ちがうんです。教えてできるようになることはどんどん教えるべきなんです。昔から教えない人、努力して教え方の工夫をしない人は「絵は教えちゃいけ ない」…そう言うんですね。
もちろん教え過ぎはいけません。おせっかいのしすぎは、自分で考える習慣を奪いますから、きちんと自発的に気づくまで待たなければいけない時もありま す。それは美術教育にかぎらず、どんな学びでも当然のことなのです。しかし、これだけは放っておけないんです、あえて反論させてください。教えてできる ことなんか、たいしたことじゃないんです。
もう一度いいます。「教えてできることなんかたいしたことじゃありません」もったいぶらずにどんどん教えてあげるべきです。
分かったつもりになったり、できるような気になることってたくさんあります。しかしそれと、本当にできるようになろうと努力する大切さを混同している限り、美術なんかになんの意味もありません。ただのわがままな自己満足です。
美術だからって偉そうにもったいぶっていてもだめなんです。
「はい、かつら剥きをしてください。できるかぎり薄くするんですよ。」「針のように細く千切りして下さい」…料理だってことばで教えただけではいつま でもできるようにはならないのではないでしょうか。
つまり、教えてできるということは、本当に基本的なこと、もしくは教えられたその時点で、わかるための理解の準備が済んでいたということなんです。それがむずかしいんです。
現実からも、過去の名作からも、失敗からさえも人は学んでいくべきです。それより問題は、教えてできないこと、ことばで伝えられない経験のほうに隠さ れています。それが大切なんです。フィギュアスケート始めた子どもに「思い切り飛んで3回まわってごらん!」そんなふうに言って偶然3回転半になっ ちゃったなんてことはありませんよ。残念ながら美術の世界だって同じなんです。レベルがあがってきたら、なおさら、自分の考えと自分のできることのギャップをひとつづつ丹念にすりあわせていくことが必要になるんです。伸びるためには、時にはずっと足踏みが必要になります。そこで教える側があわてて 結論を与えてはダメなんです。あたりまえですよね?
結局作品の中でできているということは、理解の幅をそのまま表しているんです。そして、そのわかることとわからないことの「あいだ」の努力のなかに、 教育的な意味が隠されているんですよ。
2007年3月 幸福の女神には!
子どもの頃「幸運の女神には前髪しかない」って、書いてあるのを読んで、それじゃキューピーちゃんじゃん!って思ったのは、ちょっと不謹慎ですかね。 んごごっ( © ごーごちゃん )
もちろん皆さんはよくご存知かと思いますけれど、チャンスは、やってきたその一瞬しか掴むことができないってことを言うための言葉だと思うんですが、 どうしてもその髪型と女神のイメージとがかみ合わなくて、見るたび複雑な気持ちになるというか、うなされるというか…….
さて、運がいいとか悪いとか言いますが、どうなんでしょうね。みなさんはどうですか?
もちろん偉そうに言えた立場ではないんですが、まわりの実力ある人たちを見ていると、少なくてもピンチの時に「運が悪かった」とは言っていないような 気がします。まず、物事にはがんばりどころ、がんばりどき(?)があるというところでしょうか。端から見ているとピンチだったり、大変だったりしているように見えて、どこか客観的と言いますか、ほんの少し離れたところから全体を見ているような、余裕や視野の広さを忘れない人っていますよね。そしてそう いう人って失敗した時も「そういうこともある」というある種のゆとりを忘 れていないような気がします。実は個人的に思っていることがあるのですが、(それは受験の指導をやってきて感じたことなのです。)美術系の受験の場合、経験値が必要な分、一夜漬けのようなことができません。何でも同じなのでしょう が、がんばった結果は、いつも遅れてついてきます。なので、ある程度長いスパンのトレーニングが必要なのですが、年間通して、本当にがんばって欲しい、 がんばらなければいけないターニングポイントが2〜3回来るような気がします。逆に言えば、本当にがんばるべきポイントは相当絞られていて、そのポイントが来るのを待つために努力を続けるのだとも言えるのです。もちろんその中にはどうしても外せない不可逆的なポイントも隠されているんですが、ある程度 長く受験を見ていると、1年間のスパンの中に、ひとりひとり微妙に異なった、うねりのようなもの(バイオリズムだということもできるのでしょうか?)があるんですよね。そしてどうしても外せないポイントで、(それがなかなかできないんですが)素直にがんばることが、結果につながっていくような気がします。そしてそのポイントに対してタイミングよく素直に向き合うことができる人が、まわりから「運のいい人」と、言われるんでしょう。
さて、おかげさまでまほうの絵ふでは、なぜかしら面白い人との出会いが続いているんです。こうして紙面で会員の皆さんとお会いしているのも、これはこ れでなにかの運とご縁だとも言えるのですが、絵を通して教育やものを作ることに興味を持っていただいて、少し変わった(個性的な?)人が来てくださると いうのが日々刺激的で面白いと言ったところでしょうか。さて前回の「クリ・エデュ」の展覧会で知り合った方が、実は創業77周年を迎える老舗の企画課課 長。どこでどんなご縁が生まれるか予想もつかないのですが、またまた何やら面白そうなことが生まれつつあります。まだまだ企画の段階ですが、まず第一弾 はどうやら絵ふでプラスから、そしてまたまた多くの人々にうらやましがられるような、素敵な出会いをしていただくことができそうです。大がかりになれば なるほど、様々調整しなければいけないことも多くなりますが、不思議と関わる方々が熱意あふれる人ばかりで、なにやらまた絵ふでの風が吹き荒れそうですよ。
2007年2月 本物から学ぶもの
音楽を教えようとすると想像してみてください。
普通は「あかとんぼ歌え」「リコーダー間違わないで吹け」「譜面読め」ってなりますよね。しまいには「大きな声で歌え」でしょ?それじゃ、普通に考えて、子どもに音楽の良さってわからないし 「音楽苦手人口」を増加させるだけという可能性もあります。もしすごい作曲家が学校の音楽の授業やったとしたら どうなるんでしょ?って思ったんです。
きっと教科書とか全然関係なく、もっと違った方向からアプローチするんじゃないかと。そしてたぶん、音楽の素晴らしさと、一般の人が気づかなくても、 プロが大切にすること、あたりまえに気遣うことをほんの少し垣間見せてくれそう、そんな気がします。なにより、そこにはあこがれや、尊敬が必ず生まれるはずです。
絵の場合はどうなんでしょう。絵だって「よく見ろ」「はみ出さないで塗れ」「名作見ろ」ってなるでしょう?しまいには「子どもらしくないからだめだ」 そんなことしていても、プロのチャレンジのすばらしさなんて少しも分かるわけがないし、理解というより、困惑や、何でもありといった無秩序なことばかりが印象に残るような気がしてならないんです。
そういえばこんな話を聞いたことがあるんですが、札幌市立高専の初任の音楽の先生はちょっと変わった人だったそうです。で、教科書なんてなかったので、みんな「高専の音楽の授業なんて何すんだろ?」という疑問を抱きながら最初の授業を受けたんだそうです。薄暗いシアターに、ただみんなバラバラと座って、その先生がきたら、頭ぼさぼさで、早口で、何言ってるかよくわからない。でも不思議と「何となくおもしろい」って感じがしたんだそうです。全然 押しつけたりもせず、ロックもジャズも民族音楽もクラシックも関係なく、毎回の授業は武満徹聴いたり、サティ聴いたり、バレエのビデオ見たり。それに対 して、きちんと音楽の歴史を含めて意見を話し、実際に音楽をつくらせたり。楽器弾けない人のためにもMacの打ち込みだったそうです。自分で弾いた方が 早い、なんて思った人もいたようですが、実際にやってみたら、自分で弾いてちゃ出ない音とかができてびっくりしたんですって。「へえ~、こんなモンなの か」って。週にたったの1時間だったけれど、今だにその授業のことを思だすのだそうです。さらに聞くところによると「たまにピアノ弾いたらむっっっちゃ上手いし。ひええ~ってくらい。後から聞いたら、ずいぶん有名な人だったみたいで、普通はあんまり音楽教えたりしてない人だったようです」
さてまほうの絵ふでは今回デザイナーの植原さんにご登場願いました。スポーツで言えば「全日本選手権」とか「世界選手権」とかのレベルのすごい人で す。絵ふでも植原さんも、別に珍しいことをやるべきだ、ということじゃなくて、学校とは明らかに違うんだから、絵ふでらしいやり方でみなさんに「ものを つくること」を考えてもらうべきなんじゃないか、とね。ただそれだけです。
2007年1月 未来はじめました
子どもの頃のこととか、ものごころついた頃のことなど考えるのですが、大人(?)になった自分自身、ほとんど変わらない好みであるとか、ときおり感じ る幼児性などに、驚くこともあります。そう考えると、昔の大人がりっぱだったのか、それとも今の自分が子どもっぽいのか、自問自答して混乱することもしばしばです。
さて昔の大人はいつ大人になったんでしょう。それとも子どもの頃からそう変わっていないんでしょうか。「今の若いもんは」じゃないですけれど、実は大 人も「子どもっぽいかな」なんて悩んできたのかもしれませんね。しかし…しかしそう考えると驚く事実がここにあることになります。つまり…「あんまりか わらないね!」
昔から教育関係者は子どもの伸び、成長に腐心してきましたが、もしかするとヒトの本質的な部分はあまり変わらないのかも知れません。かくいう自分も某 大手予備校の関係者からセンター試験の合計点数の一年間の伸びが、平均で20点くらい(つまり一科目につき4~5点!)と聞いて絶句したことがあります。それは一年の努力の結果としては、ほとんど誤差の範囲みたいなものじゃないですか!
そんな極端なことで考えなくても、将来の日本がどう変わるのか。それとも変わらないのか、そのこたえは今ここにあります。
今からさかのぼること約10年、1996年10月福島県の中学校に「テストをやったら自殺する」という匿名の電話があったため、「いたずらとも考えら れるが、命の大切さを最優先して延期」(教育委員会の見解)しました。前後して横浜の女子校で「体育祭を中止しなければ自殺する」との匿名の手紙があり、これを中止。
今期、道東の小学校で給食時、週に一回アニメのビデオを放映することを父兄が問題視するも、学校側は子どもが自主的に決めたこととして継続。親何も言えず。
つまりこういうことです。朝礼で校長先生のあいさつのあいだ中、おしゃべりがどうしても止められない子どもたちは成人式の会場で再会して、来賓のあい さつのあいだも静かにすることはできません。しかし、自分たちの言うことを学校の先生が聞いてくれないと教育委員会に言いつける子どもたちは、市長や知事のリコールの先頭に立ってくれるかもしれません。
ゴミ箱があふれている学校では、20年後、地域のゴミステーションはぐちゃぐちゃです。
給食のとき食べこぼしを拭くことができない子どもは、大人になってレストランで床に落としたポテトを踏んでも気づきません。
店員に対して何も言わずに手を出して買い物を終える子どもは、お店でアルバイトをしようとして、なかなかあいさつが言えずにとまどいます。
掃除用具がこわれ、トイレの扉ががたがたしている学校では、20年後おなじ地区の公民館の維持管理がお手上げになります。
朝の地下鉄はさながら化粧室のようです。みんなならんでまつげのチェック。文字通りヒトのことなど眼に入る余地がありません。
なにより未来の地下鉄で、おじいさんおばあさんになった今の大人は席をゆずってもらえません。これはきついでしょうねー。
さて2007年!
ひとに優しく、自分に厳しく、子どもたちにも、ちびっと厳しく。さあできることからはじめましょう!
2006年12月 おべんきょ新法で18歳未満の携帯電話が
いや本気で考えているわけじゃないんです。そんな意見を読んだことがあったんですが、それほど深く考え込んでいたわけではないんです。しかし、この前 ふと思い出して、ちょっと考えるところが あったんですね。
ある統計によると高校生の51%、まあいわゆる半分くらいが、学校以外で一秒も(!)勉強していないのだそうです。一秒もっていう言い方がすごいんで すが、つまり雑誌とかは別にして活字も読まずに話したり、遊んだり・・・って何をしてるんでしょう。書きながら正直思いつかないんですよね。そんなにお金を持っているわけじゃないから、カラオケ行くわけでもないでしょうし、法律上呑みには行けないし、ゲーム?だれかとデートですかね?寝てるのか?
まあそのように不思議な統計がでているわけなんです。朝一番の約束があって、ふだん乗らない電車で東京の都心から郊外へと移動していたと想像してくだ さい。乗ったのが7時前。混む方向ではないので、ごくたまに私立の小学生やら中学生らしき子どもも見かけますが、だいたいお勤めのおとなばかりです。 20分ほどで乗り換えて、さらに先へ。だんだん高校生が乗ってきます。にきびのぽちぽち見える男の子やら制服の女の子。しかし時間が経つにつれてだんだ ん感じが変わっていきます。もちろんたまたまでしょうから、えらそうに時流を論じるつもりはないんですけど、8時をまわって時間が経ち、「どう考えても遅刻では?」という時間になってくると、ふと思っちゃったんです「ホントに一秒も勉強してないかも知れないな」って。たちの悪いジョークだと思っていま したが、向いの女子高生はビューラーでまつげを整えるのに夢中です。そのとなりでもその前でもみんなずっとメール打ってます。つーかあの子たちぜったい授業中も打ってます!打ちまくりです(先入観強すぎますか?)
思えば携帯電話が、ゲーム機であり、音楽プレイヤーであり、ワンセグテレビであり、スケジュール帳であり、目覚ましであり、コミュニケーションに欠か せない道具なのははっきりしています。遊び道具満載の子ども部屋を持ち歩けるということに、とうに子どもは気づいていました。セキュリティのためとして、小さな子どもが持ち歩くのはもう止まらないでしょう。どう考えても電子辞書や計算や漢字の学習ドリルが組み込まれるのは時間の問題でしょう。
勉強にも必要だしみんな持ってる。何かあったら助けを呼ぶのといわれたとき、さあみなさんはどうしますか。
2006年11月 良い教育/良い環境とは
秋たけなわです。気の早いところでは人工雪でゲレンデ作りをはじめたとか。山ではそろそろスキーのシーズンもやってきますね。冬のニセコとか富良野と か、リフトの上から見ていると、ヘルメットかぶった小さな子が、八の字ボーゲンのまま上から下まで直滑降で行くのを見て、「ああ、こういう子がオリン ピックとか行くのかな」なんて考えます。最低限のルールを教えられ、考え得る一番の用具、安全な装備を与えてもらい、「素晴らしいバーンだ」そんなふう に世界中の人がいう斜面にチャレンジする。周りには(地元ですから)その子のことをよく知ったスキーの上手な大人がいて、どこそこのお兄ちゃんはオリンピックに出たとか、なんとかさんの下の子はこの前全日本の強化選手になったとか、具体的な目標がある。まず習うより、スピードと遠心力・三次元の重力に とびこむ勇気とバランス力を身に付ける。
そんなところから本物の才能が選び出されるのでしょう。大切なのはまず、そのものの持つ魅力自体が学習をすすめ てくれること、上手くなること上達することに、具体的なイメージを持つことができるのも大きな意味を持ちます。
さて、美術の場合はどんな学びの環境があり得るのでしょう。明るくて清潔、整頓された環境。暑すぎず寒すぎない集中を妨げない空間。子どもの今できる ことと興味に合致した適切な課題の問いかけ。アドバイスしすぎることはないが、柔らかく見守る指導者。目はとどくが、適度にほっとかれることも大切です ね。そうでないと自分で答を出すチャンスが失われてしまいます。つまりスキーでいえば能力の要求にこたえる素晴らしいゲレンデと適切な装備、最低限の安 全と良い場を提供する。つまり集中することのできる環境と時間。教育の原点はそこにあります。そしてもうひとつ、高い目標・こころざしをもつこと(遠い視点)と、そのときチャレンジすること(近い視点)が子どもの能力に対して適切なことです。どれもありそうでなかなかないことです。夢だけを語って子どものできないことをやらせる指導者。できあがっためちゃくちゃの作品を、子どもはすばらし いとほめちぎる。制作場所は用具やゴミで雑然としていて、制作のあいだ中おしゃべりで騒然としている。そんなケースをいくつも見てきて、絶望的な気持ち になることもままあります。しかし絵ふではそういうのイヤなんです!絵ふではニセコになるんです!
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