2012年12月 美術はなんのために学ぶのか?

satouchuryo

『子どもの美術1』昭和55年度用/現代美術社/より

ワシは日本が大好きだ。ワシが日本で、日本はワシだというくらい日本のことが好きなのだ。ワシが思うに、日本人は美術を学ぶべきである。その理由を一所懸命考えたのだが、昔の図工の教科書に、これ以上ないくらいわかりやすく書かれていたので、くどくど言わずにそのまま書いておくことにする。それが冒頭の文章なのである。えふで校長としてワシは常に言ってきた。えふでは上手に絵を描いたり、上手にものを作ることを目標にしていません、問題解決の方法を考え、問題が発生したとき、みんなに頼りにされる人になって欲しいと。絵描きさんやらデザイナーさんになりたいというのもよいが、お医者さんや、弁護士の先生として、そんな解決方法があったとは!と驚かれるのも良いし、どうしてもできない物も、あの人にお願いしたら必ず作ってくれると評判の、街の職人さんになるのも良いと思うのである。そう、自分の目で見たこと、自分の頭で考えたことを、世の中の常識や、これまでの成功体験を頼りにせずに、まっさらなところから考えられるように。ずっと昔の人がこうしなければいけないと言い伝えてきたことも、気負うことなく意味を考えることができ、情緒や、思いつきや、雰囲気でいいなと思ったことと、寝ないで考えに考えたこと、パソコンで調べたこと、計算で導きだしたことを、ためらいなく同じテーブルに並べて検証することができる。他にも偉い大学の先生と、近所の顔見知りのおじいちゃんの言ったこととを、同じ可能性のもとで検証できたり、朝日新聞やフジテレビで言ってたことも、自分の直感でひらめいたことも、同じように慎重に検討できる。そんな人になって欲しいのである。

たかだか…絵や工作。そんなことであっても、ほんとうに心を込めて作っていく経験を重ねることで、自然物がどんなに合理的にできているのか深く感じるようになるであろう。切ろうとしている木材が、どういうふうに切って欲しくて、のこぎりがどう使って欲しいのか、筆がどのくらい水を含ませて欲しいのか…そんなことばが聞こえてくるようになるかもしれないと思うのだ。…たいがいみんなに空耳だって言われるけどな。たくさん絵を描き、工作をすることで、校長のような大人になってはいけないのじゃないか、 と いう ことが わかって くるでしょう。 これが めあてです。なんちて。

 ちなみにこの「こどもの美術」という小学校の図工の教科書の監修は、旧制札幌第二中(現在の札幌西高等学校)→東京美術学校(現在の東京藝術大学)出身の佐藤忠良先生(1912年ー2011年没)です。一説によれば、冒頭の言葉も忠良先生が書かれたとのことですが、本当に何度読んでもその度に校長は感嘆するのである。しかもこれのすごいところは、1年生から6年生まで一部が漢字になっているだけで同じ内容だという点。つーか大人が読んでもすごいよね。

 さて、せっかくなのでもうひとつ文章を載せておくことにする。
 数学者の岡潔先生(おか きよし/1901年ー1978年没)が書いたこどもの個性や自我について。

 「日本はいま、子供や青年たちに「自分」ということを早く教えようとしすぎている。こんなものはなるべくあとで気がつけばよいことで、幼少期は自我の抑止こそが一番に大切なのである。自分がでしゃばってくると、本当にわかるということと、わからないということがごちゃごちゃになってくる。そして、自分に不利なことや未知なことをすぐに「わからない」と言って切って捨ててしまうことになる。これは自己保身のためなのだが、本人はそうとは気づかない。こういう少年少女をつくったら、この国はおしまいだ。」(エッセイ/春宵十話より)

 なるほどそうかもー…って、思うのはちょっと早い。初出は50年ほど前のこと。ゆとり教育や個性重視なんて言葉もまだ。詰め込み教育の弊害がいわれ始めながらも、日本は高度成長期に向かっていく頃。ですから岡先生が「自分ということを早く教えられているぞ」とお考えになり、警鐘を鳴らされたその時のこどもたちは、すでに50年後の未来を生きています。そう、ちょうど現在の社会を、経済を、政治を動かす立場です。つまり子どもにあれこれ言う前に、自分たち大人が一体何に影響を受けてきたのか、自分の価値観がどんな教育のもと形づくられてきたのか、要はそこから考えねばならないのではないかと。ワシは自分の制作を通して日々そういうことを考えています。