2013年7月 これからの絵画教育はどこへ向かうのか?

今月はちょっと専門的なはなしを。

世の中の様々な研究は、先人を受け継ぐ形で行われます。例えば天文学が、地球と太陽のどちらが回っているのかの確認からスタートすることが無いように、先駆者の研究成果を(ときに疑うことはあるにせよ)「ここまで明らかになった」として、さらにその先の研究へと進んで行くのです。そういった意味で、美術はこの先どこに向かうべきでしょうか。

実は、絵画などでも、先人の知の欲求としての成果を受け継いだところから考察を始めることはあるのです。意外に思われるかもしれませんが、美術の歴史は個人的なものではありません。文化・風俗としての流行り廃り、経済的な発展も多分に影響はしますが、その時の素材科学の進行度合いとともに、心理学や社会学など、多くの場合はその時代の中でかたまりのようなムーブメントで動いて行くものなのです。反面、技術・技能の部分では、個人的な努力の割合が多くなります。こちらの面に関しては「新しいものが優れている」とは言い切れないところがあります。写真の発明によって、絵画がそっくりに描くことから解放されて独立した道を進み、技術否定が進んだという事実はあっても、ある意味、いまだ技術的にダヴィンチなどの古典を越えた芸術家はいないと言えます。

では現代の作家は技術などいらないのか?ここは考えの分かれるところです。校長は、おのおのが想い描いたイメージを他者に伝えるための技術は、あればあるほどよいと思っています。とはいえ、えふでの絵画指導では、あまりガチガチの技術指導はしていません。それよりも、小学校高学年から中2ぐらいまでは「描く手数を増やす」方向の指導をしています。これは手を動かして確認することで観察の力を伸ばして行くという「目と手の一致」の習慣をつけるためです。できれば、その過程で「見えたようには描けていない」ということに気付いて、それを克服しようとする努力のプロセスに興味を持って欲しいのです。さて、そうこうするうち、中2を過ぎるあたりになってから、はじめて絵画を認知や認識といった要素で考えることが可能になってきて、ここから本質的に先人の知恵を学ぶきっかけが生まれます。ヨーロッパなどの美術館で現代のものから15世紀くらいの古典絵画までを見てみると、改めて15世紀の人の上手さに感嘆します。油彩などの技術の確立などもこの頃であり、発色、細密な描写のうまさ…すばらしいです。ワシも含めて今ではなかなかああは描けないです。

さて、絵の具などの素材科学のみならず、1800年代の写真の出現によって、画家が「本物そっくりに描く」というプレッシャーから解放され、絵画の役割が大きく変わったことには触れましたが、これは大きな意味を持つのです。とはいえ、美術教育の中では現在も絵画の技術修得は大事です。技術や器用さが必要ないわけではなく、自己実現のために大切なこと。しかしそれはデッサンのみならず、模写などの日常的な自主トレでも上達するくらいのものであると思っています。

ワシがえふで(特にラボ)の指導のなかで目指していることは、写真みたいには見えていないと気づき、その結果として「こども絵」からの脱皮をしていくことです。写真みたいというのは、ある種の記号性でもあります。富士山、太陽、チューリップ…マークみたいに描くのは、頭を使わなくても視覚情報を理解できるように、ものを見るときに簡素化・自動化されているということ。例えば赤ん坊は、色の固まりで見えていて、具体的に1個1個の違いが見えていないと言われています。えふでで絵画を学ぶことで、まずは使い古された観念的な見え方から離れ、赤ん坊の見え方に戻るのです。ありふれた言い回しですが、簡単に見ようとしないで、新しい見方を手に入れることが大事。見るということを意識し、何が正しいか考える。そこから空間感や立体感、組み立てとしての構築力や必要な要素を抽出する力が見えてくる…つまり概念を崩して、新しい自分の見え方を手に入れていくんですね。