2013年10月 キッズコースのプログラムと指導について

 今年度の後期10月から新しく水曜日にもキッズコースを開講します。一昨年あたりからキッズの「満席」状態が続いてしまい、入会をご希望の方々に、常に待っていただいている状態でした。水曜キッズクラスを増設することで、クラス変更や振替等も、これまでよりもしやすくなると思います。ご希望の際はぜひお知らせください。加えて席数は少ないのですが新たに入会の希望者を受け入れることが可能なクラスもあります。
 さて、おかげさまでまほうの絵ふではスタートから35年です。社会状況や、教育を取り巻く環境が大きく変わる中、えふでは小さなこどもたちの美術教育について、研究と実践をずっと続けてきました。幼稚園の先生がたや、他都府県からいらっしゃる美術教育関係者と話しをするなかでも、多くの方がえふでの授業内容を不思議がり、指導方針の質問を受けることも少なくありません。せっかくの機会ですので、我々がキッズコースのプログラム開発と指導面で考えていることを紹介したいと思います。

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こどもは変わったのか?
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漠然とですが、社会構造やテクノロジー(特に通信・IT系)のたいへん大きな変化のなか、本質的にはこどもは変わっていないのではないかとワシは感じています。逆説的な物言いになりますが、校長としてはこどもに与えた環境によって起き得る結果は、本質として変わっていないのではないかと思っているのです。いわゆる廃用性障害などという言い方がありますが、肉体的に使わない部位は廃れて行きます。こどもを取り巻く環境、我々おとなを取り巻く環境も…55年体制の終焉、ベルリンの壁崩壊、ゆとり教育を巡る混乱、震災…確かに大きく変わりました。が、何よりも影響が大きいのは、「不便の駆逐」と「物からデータへ」の流れではないかと思います。例えば、靴ひもを縛る不便さから、マジックテープなどへの変化は理にかなっているのかもしれません。が、こと教育の観点で言うならば不可逆的に「できないことを増やす」流れであると思います。またデータ化や映像情報のやり取りが圧倒的に便利になったことで、失う身体的な感覚もまた不可逆的に感受性の退化へと繋がります。この点については異論もおありかと思いますが、知人の映像作家が「映像の高画質化は知っているという錯覚を起こさせるが、暑さ寒さと臭いは映像では伝えられない。画像の荒さがリアリティを生むことすらある」と言っていたことを示すにとどめておくことにします。テレビなどで見ただけのものを知っていると感じる錯覚はこどもからあこがれを奪い、やがて知の欲求を消滅させることでしょう。

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えふではアートを通した教育を行う場
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 そんな中、まほうの絵ふではどうあるべきか。ややこしくて恐縮ですが「美術教育」について言うならば、自我の形成との関連で、経験的にほぼ14歳以降でなければ専門的な美術教育が機能しません。その意味でえふでのキッズやジュニアでの授業は「絵や造形を通した教育」つまり「アートの教育ではなく、アートを通した教育」であると位置付けることができます。ですから世に存在する様々な美術教育機関で、2~3歳から受講可能なところもありますが、えふでは、これまでの経験から4歳年中からの受講にこだわっています。(初期のえふでは4歳から入会可能でしたが、ワシの代から4歳以上かつ年中さんからにしました)もちろん個人差もありますが、こどもが自分のこと以外に、他者のことも意識し、ある種の社会性を持つためには、現実的に年中さんくらいの生活の経験値が欲しいところです。キッズに対して行っている授業は、アートを通した教育として、アートに関する活動をする場であり、集団教育の形体をとっていることも、他の学校やスクール、スポーツの少年団等と変わりがありません。ルールや成り立ちを理解した上で、人間関係の面でも社会性を学ぶことが必要だと考えているのです。他のスクールで2歳3歳であれば、親御さんと一緒の受講(親を通した教育?)であったり、ぐるぐる描き、バチバチ描き(専門用語でいうところのスクリーブル)、紙をびりびり破いたり、絵の具をこねて手で描いたり…など情動をそのまま外に出すことがめあてになることが多いのですが、えふで校長としてはそれはアートを通した教育というより、保育の領域であると考えているため、アートスクールとしてのまほうの絵ふでがそこに加わることはありません。

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こどもは小さい人
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「こどもは(無条件に)かわいい」「こどもは無邪気、素直」「こどもの感情の爆発こそ重要」…というステレオタイプな見方をワシが校長としてすることはありません。もちろんこどもはかわいらしさを持っていますが、教育として、こどもに「できるようになる」ことを求めるためには「どこまでできているか」を冷静に見る必要があります。えふではその関係を、大人と同じように「人対人」の関係、コミュニケーションだと考えています。生まれてからの時間が短く、経験が少ない人間(ひと)として、キッズには複雑なこと、複層的なことはできません。しかし本質的なことを飲み込む力には優れています。だからこそキッズの授業は要素を削ぎ落としたシンプルなものにしているのです。実は要素としては同じことを年長者であるジュニア(小3~小4)にもラボ(中学生~高2)にも延々伝えています。極端に言えば、まれに同じモチーフを違うねらいで描かせることすらあります。もちろんキッズに対しては興味の入り口としての、知る喜び、できるようになる喜びを重要視していますが、制作を通して考えて欲しいのは、なぜそうなっているのか?という知的好奇心、思考の筋道で、そこを大事にしています。

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思考のすじみち
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校長がこどもに向き合うときまず念頭においているのは、「絶対的な正しさはない」「何が正義なのかすぐに答えは出せない」ということです。校長は美術の作家として「正しさ」「美しさ」を探していますが、それはもしかしたら錯覚なのかもしれないと、常に畏れを持つべきと考えています。ですからそのようなことを押し付けるのではなく、あくまでプラクティカルなこと、現実的、技術的なことをベースに伝えています。こどもが制作に取り組む様子を見ていると、それぞれの思考の道筋や癖、傾向のようなものが見え、その切り口が作品として残ります。よくお伝えすることですが、特にキッズは大人が思うほど自作にこだわりがないことすらあります。
 ですから作品は、こどもの思考のすじみちの記録として、親御さんが年度ごとの保管をしてあげるようにしてください。大人になったとき、大人になりつつあるときに自分のことを深く考えるきっかけになります。4歳のときに6歳児のような絵を描かせるのがえふでの目的ではないですし、20歳のとき22歳のような絵を描くことの無意味さは言うまでもないことだと思います。そうした本質に繋がる制作を重ねつつ長い時間を過ごす中で、自分に対する理解、本質的な思考が可能になり、その結果多くの人と深く共感することができるようになるのです。

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個性を伸ばすとは?
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はっきり言います。えふでが個性を伸ばすことはできません。もっと正確に言うと個性を教育で伸ばすこと自体ができないのではないかと校長は考えています。また、世の中に多く信じられているように思える「個性は傷付けないように守ってやらないと壊れてしまう」という考えには賛同できません。タマネギみたいに剥いて剥いて剥いて…最後の最後に残るのか残らないのか分からないようなものが「個性」の本質だとワシは思います。彫刻家の佐藤忠良先生がおっしゃった『路傍の石ころを見ながら、そのそばを何万回通っても、ああ石ころだなと思っている人と、1回通っただけなのに、石ころに自分を投影できる目と心の訓練の違い』そういう真摯な想いのないところで『自由に好きなように、と言いながら、しまいには足や手で絵の具を掻き回したような教育』でしっかりとした思いと謙虚さをもって美に思いを馳せる人物が生まれるとは思えません。我々が今必要としているのは献身的な『知識と人格の統一』があるひとなのではないでしょうか。

今回のオリンピック開催地の選考でワシが考えたのは、まだまだ世界中でそれぞれ様々な問題を抱えているということ。やはり日本は、世界中から問題解決の新たな指針づくりについて「日本なら何とかしちゃうんじゃないか?」…実は本当にあり得ないほど期待されている、そんな印象を持ちました。今回のこの決定は、キッズのこどもたちにじわじわと日本に対する誇りを与えてくれるような気がしています。まほうの絵ふではそんなこれからの期待を背負うキッズたちの授業について、さらに柔らかさと厳しさを併せ持ち、内面からの自発的な努力を促すものにしていきたいと考えています。