年度末でございます。今年度もみなよくがんばりました。子どもたちの成長著しく頼もしゅうございます。繪ふでっ子たちの益々の活躍を祈念しつつ、美術の教育に関する繪ふでの考えをまとめてみました。ワシ惟フニ我カ繪筆ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。
其の一 教育で「創造性」はのばせません
創造性は教えられないものなのです。特にこれはワシら美術関係者が一番勘違いしてきたことかも。一握りの天才は別だとしても、われわれ凡人には(これは実体験で身にしみて思います)過去の優れたものを、独自の配置で並べ替えるのが精一杯。世の中になかったものを生み出すということは、それほどまでに難しいことだと思います。だからこそわれわれは過去に学ばなければならない。歴史を知って、ヒトの行いの結果を知らなければいけない。天才に学び、天才性について尊敬の念を持ちつつ深く考えなければいけない。思い込みを排除して、素直な目で、なおかつ疑問を持ち、設問の前提となっているものが何なのか常に考えを巡らせながら、問題解決の方法を探らなくてはいけない。そのような姿勢があって初めて「創造性」らしきものに近づくことが許されるのではないかと思うのです。簡単じゃないよ!
同じように「美術の」教育は可能なんでしょうか?これも少なくとも 歳を越えて客観性が生まれないと成り立ちません。なので、えふでは「美術を通した」教育をベースにしています。
其の二 身体性が大事
手先で描かない、からだで描く。アタマで描くのではなくて、からだで描く。工作でも絵画でも何でもそうですが、からだの使い方が大事。えふででは姿勢をよくしなさいと口うるさくいいますが、キッズであってもアートラボであっても、ものを見る基準がブレないことがなにより重要だと考えているのです。揺れているものを描くのは大変ですが、見ている自分が揺れているなら、同じことです。もちろんキッズは見たいものを見たいように見ていますし、ラボは自己客観性をベースにした正確な観察が重要になりますから、出来上がったものは全く違うものです。しかし単純に考えるならば、からだをぐにゃぐにゃさせずにある一定の時間保持できるという体幹の筋力、体力がないと、集中力が持ちません。世の中で問題になっている学級崩壊的な現象の何割かはこの体幹のちからが欠けていることで引き起こされていると思います。
たとえば田舎の子どもの方が体力があるような気がしませんか?野山を走り外遊びをして…いるはずだったのが、今では田舎の子どもの方が祖父母のクルマで友達のうちまで送ってもらって室内でゲームをしたりで、お葬式とかでは黙って座っていられません。これが結構シビアな現実です。東京のひとってわれわれクルマを使う北海道人から見るとずいぶん歩きますよね。子どもにもそんな現象があるのです。
運動したり、体操を習ったりという前に、きちんとからだを保持して座る。ここから始めることだって、学力に直結します。集中力は体力に比例…しますからね。
蛇足ですが「みぃつけた」のキャラクターであるコッシー。実は「座る」という行為そのものが、自由のびのび好き勝手…ではなく、相手との関係の中で位置の決定をともなうという、ある種の「社会性」の象徴なんですが気づいてました?
其の三 踏まれてたたかれてこそ個性
一時期の教育関係者の口癖は「個性を大事にしてのばしてやらないと、個性はなくなってしまう」「こどもの個性を摘まないで」って…うーん。これ言うと誤解されたり叱られたりすると思いますが、はっきり言います。大事にされなかったとしても個性はなくなりません。踏んでなくなるようなもんは個性じゃないんだよ。個性と個別性を分けて考えよう。(チベットのように弾圧されたりするのは個性以前に人間性の問題ですのでもちろん違います)「世界で一つだけの花」…の幻想から目覚めなきゃ。だいたいワシらがいい暮らし、安全なくらしができるのは、おじいちゃんおばあちゃん世代ががんばってくれたおかげである。まったく、自分たちで悪い日本、ダメな日本のイメージ作りばかりしてきて、内側から反省、諸外国から叩かれて元気がなくなるというスパイラルの中にいる現代のワシら。平等やら安全安心やら、ケンカはいかん、イジメはいかん…自分たちをとことん縛って元気が出ないようにしてきたようにも思える。
つーことは、勤勉さとか、自信とか、豊かさとか、安全つーのは個性じゃなくて、努力で手に入れたもんだつーことですぞな。踏まれて叩かれても、タマネギみたいに一枚づつ剝いでもどうしても残るもの…それを個性と呼ぶ。それでいいのだ。(あ、どこかで聞いたような個性的ではないフレーズ…)
其の四 根にあるルールを考える
校長は絵描きやデザイナーを育てる気はないのです。世の中には小学生を対象にした画家養成コースがあるのだそうで、そのことを知ったワシは驚きのあまりひっくり返ってしまいました。あくまでワシ個人の考えを書きますが、アーティストはなりたくてなるのではなくて、ならざるを得なくてなるものです。これはことばのあそびではありません。似ていますがワシはこの違いはけっこう大事だと考えています。例えるならみかんジュースとオレンジジュースがまったく違うようなもんなんだよな。
様々なことに疑問を持ち、成り立ちや仕組み、根底にある隠れたルールを一所懸命考える…そんな中から美術に興味を持ってくれるなら、こんな素晴らしいことはありません。しかしだからといってアーティストやデザイナーにならなくてもいいんです。お医者さまや弁護士になって、独自のやり方で問題解決をするすごい人になってくれたら、それも素敵でしょう?
うーん。正直言って校長は画家養成コースなんかに通う子どもになって欲しくはないなあ。詩人養成コースとか、空手の通信教育とか、政治家になるための予備校とか…ま、べつにええのか。ひとそれぞれだもね。ワシがとやかく言わんでもええな。
其の五 4歳・9歳・14歳は大きなヤマ
振り返ってみて初めて「よくがんばれたなー」なんて思える。そういうのってたいへん幸せなことだと思うんです。どうしてもつらい思いをしたくないさせたくない…そんな優しさに満ちた世の中であっても、地震だって津波だってなくならない。関東大震災や東京の大空襲、阪神淡路大震災でみんなダメな大人になったのか。死ぬほどつらいことを知ったヒトが、生きることのすごさを教えてくれる存在になることだってあるはず。
どうしても子どもの考えていることを甘く考えがちだけれども、やはり14歳くらいで、ヒトとしてのだいたいの方向性ができているような気がしてならない。これは勉強が好きとか嫌いとかという問題ではなく、素直さやずるさ、抜け目なさ(悪い意味ばかりではなく…ここで言っているのはサッカーでいう「マリーシア」のようなもの)も含めた「総合力」(…理想を具現化するちからと言い換えてもよい)がはっきりしてくるような気がするのです。そこに到達する前の9歳、もっといえばその前の7歳。そして4歳。それはずっと続いています。われわれオトナだって連続した時間の中に生きている。だけどやっぱり4歳9歳14歳って大きなヤマだと思います。鍛えるべきときに鍛えることができる。厳しさ大変さを、おもしろがって超えていって欲しい。
其の六 超ドメスティックなものこそ世界に通じる
インターナショナルは幻想。世界に出るならドメスティック?。みんなが考えるインターナショナルなんてものはこの世にない。…なんてえらそうに言えるような立場ではないんですが、インターナショナルっていうイメージは…幻想なんじゃないだろうか?っていつも思うんです。
だいたい北海道ってもとをたどればどこかからの移民の集まりじゃないですか。(北広島なんて地名もあったり)しがらみもなく自由でよいという反面、文化らしい文化がないともいえる。よさこいソーランとか何ですか?あれって四国からのものでしたっけ?もちろん雪まつりが続いてきたように何十年、何百年と続いていくのかもしれませんが、それもけっこう大変なことです。
で、自分の立ってる場所をどんどん掘り下げて行くしか世界に通じる道はないんじゃないかと。つーかトンネル?新たな文化に飛び込んで行くにしても、自分の血や肉になるまで取り込んで行かないとホンモノとして認められないはずです。借り物とか、サルマネって一番軽蔑されますから。 絵画だってそうです。洋画って所詮借り物。かといって日本画って本当の意味で自分たちのものではない。ふすまや屏風や床の間がないお家だって増えてきた。
えふでの子どもたちよ、世界で活躍するために…自分の足下を掘れ!英語も大事だが、日本の古典のあとでもいいぞ。