2011年10月 見えてるようにしか描けません。 描けてるようにしか見えていません。

 日本でも屈指のいかれたアートスクールまほうの絵ふでですが、前期の作品返却。作品をご覧になっていかがでしたか?子どもの作品を見ると、描くことを重ねて認識が深まっていく様子が垣間見えて非常に興味深い。また、こうやってまとまった作品を時系列的に見ると、子どもの認識の変化についてしみじみ考えさせられます。本当に貴重ですよね。

 加えて返却作品とともにお渡ししたお手紙「どんなことをしていましたか」ご協力ありがとうございました。ぞくぞくとお返事が返ってきました。いやー、おもしろかったですね。これは1925年から2012年へと続く年表式のスケールが描いてあるもので、お父さんお母さん、そして子どもたちがいつ頃、何に夢中になっていたかを思い出して書き綴っててもらうというもの。その気になればおじいちゃんおばあちゃんの分まで書けるという長いスパンのスケールでした。

 いろんな年表がありました。ざっくりしていて面白いもの、小さな字でみっちり書いてあって家族の年表になっているもの…プチ事件簿みたいなものとか、あ、新聞食べちゃったとかね。すごかった。しみじみ思ったんですが、みなさんいろんなものに熱中してたんですね…えふでっ子は面白い子ばっかりだけど、親もすごいわ!まー言うなれば結果とその理由みたいなもんですね。お父さんお母さんの興味や趣味、ひいては美意識っていうものが、こうして子どもに受け継がれていくんだなあと。家族ってすごいですね。ちと感慨深いものがありました。いただいたたくさんのお手紙を拝見しての校長総括のひとことは…「ひとに歴史あり」ぞな。

 さてさて、この時期作品を見直しつつ校長がいつも思うのは、絵画ってすごいなーということ。やはり絵画は知性の産物であるのです。刻々と変化する理解と認識、そして身体性がセットになって、結果として作品のかたちに残される。見えたものを描いていながら、見ることを通して何を感じたのかが立ち上がってくる。その子にどう見えたかが現れてくる。つまりその子がその題材をどう認識したのかを、絵を通じて共有することができるのです。

 想像画は何を考えたのかが分かりやすいと思われる方が多いと思いますが、実のところはモチーフなどを見て描いた絵の方が、その子の認識が分かって興味深いのです。絵というものは見えたように(もしくは認識したように)しか描くことができませんし、同時に描けているようにしか見えていない。絵を描く上では技術的なことが大きく影響するように思いがちですが、実はこころの問題が大きいのです。視覚って学習がないと成り立たちません。ですから作品には観察できている深さ、到達点が示されています。見ているものが見えているものだという訳ではないんです。これは授業の中でもいつも言うんですけれど、みんな自分の信じてるものを見てるわけであって、見たものを信じようという努力は絶対といっていいほどしていないんですよね。

 さて、こういった書き方をすると、違和感をお感じになる方もおられると思います。そんなに難しく考えなくても…とか。しかしここであえて聞き返したい。絵ってのびのび自由なだけのものなんでしょうか?と。特に子どもの絵は「自由・のびのび・いいかげん。」であるほうが好まれるようです。(…あれ?最後のは違いましたね。最近は自由・のびのびと言う代わりに「わくわく、いきいき、にこにこ」と言うのが流行なのだそうです。)しかし、絵を描くこと、美術を通して学ぶことの本質は全然そんなことではないのです。校長の考えていることにすごく近いことを、物理学の権威でありながら音楽家をされていらっしゃる伊東乾(いとうけん)先生がこうおっしゃっています。

 「よく言う事ですが学校で美術を教えるのは何もアーチストや画家、絵の上手い子を育てるのが目的でなく世界の見方を教えるのが本当は一番大事、音楽も体育も同様で世界への耳の済ませ方、世界とのからだの関わりあい方を教える、そういう場がもっとあるほうが、人間らしい毎日が送れる気がするのだけれど」もちろん絵の大事な要素としてファンタジーもありますから、そこをもっと重視したほうがいいのではないか…という意見も承知しています。うーむ、そこも踏まえた上であえて大げさに書きますが、子どもの絵画は自己認識のための闘いです。同時に自己をとりまく世界に対しての世界観をどう組み立て、どう捉えていくかという自己確認のシミュレーションであるとも言えます。それは子どものぐちゃぐちゃのお絵描きの中にさえ確実に存在します。つまり子どもが世界をどう見ているかが絵に現れるのだと思います。

 また実際に絵の変化は認識や認知力の発達、身体の発育とリンクしています。タマゴが先かニワトリが先なのか…議論は数あれど、基本的には認識が技術に先行します。校長は子どもたちに楽しく制作に関わってもらいたいという気持ちを否定するつもりはまったくありません。しかしその楽しさにも二通りあるような気がしてなりません。うっきゃーという喜び組?喜び爆発系。子どもらしさと言うとき、たいがいのひとが思い浮かべるのはこちらの方でしょう。で、もうひとつは熱中系。ご飯に呼んでも気づかない。顔を真っ赤にして一言もしゃべらない。倒れるまで、おしっこもらしちゃうまでやっちゃう。口は半開きでよだれが出てる…。校長はおもらし・よだれ派を支持します。

 ある程度の学年からは「こう見えてるはずがない」っていうことに対してがんばれるかどうかは、たいへん大きな壁です。われわれは何かを間違えるとき、何かが違うと深いところでは気づいてるにもかかわらず、知性でふたをしてしまうことがままあります。おもらしし、よだれをたらしながら、あるべき姿を、あるがままに見る。美術はそんなちからを育て、こころの強さを育ててくれるものなのだと思います。べつにたらさなくてもいいけど。さて、11月は各年齢の子どもが同じものをどう認識するか違いに注目!