教えてできるようになることって、たいしたことじゃないんです。少なくても美術の世界ではたいしたことじゃありません。…なんていうと、みなさんあまりいい気分はしないようです。なんだか納得できないような気もするし…なんてね。たとえば音楽でもスポーツでも、教えてすぐできるようになったという話を聞くことがあります。聞いただけですぐに弾いた、とか、お手本の難しいステップをそのままやってみせた、など「天才」とか「才能」とかの言葉にはなにかあこがれをかき立てるものがありますよね。先ほどのすぐできた例でいえば、たしかにそれはすごい才能の持ち主の証明なのかもしれません。しかし、時にはその課題の「難しさ」の度合いがどのくらいだったのかを、冷静に考えることが必要だとも思います。ちょっといじわるに考えると、教えてすぐできるということは、その内容自体がそんなに難しいことじゃないのかもしれませんから。そういえばこの前に校長が自転車を借りたら、まったく素で「乗れるんですねー」と言われて、ちょっとメゲました。ま、多分似合わないとか、イメージに合わないとかいうことを言いたかったんだとは思いますが…ま、いいか。さて、お分かりのようにすごく簡単なことをすごいすごいとほめられることは、ある年齢からは逆効果であるように思います。というかなんだかバカにされてるような気がしたりしてイヤですよね。もちろん人によっては(大人であっても!)不思議なほど、ほめられるとか、認められるとかに弱い人がいるのも事実ですが、こと教育的な目線からいうと、やはり的外れなほめられ方というのはあまり気分のいいものではありません。それは、どんな年齢であっても結構かわらないところではないでしょうか?
さて、イラストレーターの大塚いちおさんとごいっしょした時出た話題ですが、いちおさんこうおっしゃいました「4歳の子が6歳児のような絵を描いたら、みんな天才だ!とかいうよね、そしてその子が6歳になったとき9歳くらいの絵を描いたら、またすごいっていう。だけど20歳のときその人はどんな絵を描くかが問題なんじゃない?」うーむ…これにはうなってしまいました。本当にいろいろな含みを持った問題で、子どもをほめることの大切さ自体は否定してはいませんが、同時に俯瞰した客観性や、ある程度の長いスパンでの思考が必要ではないか、ということを教えてくれています。
美術の場合だと、自信がないひとほど、何か特別な才能が必要なことのように身構えてしまい、どこをほめていいのかと悶々としたり、できた作品の意味を問いただしたり、なんてふうになりがちですが、えふでが行う教育(美術を通した教育)では、かならず、大ワクのねらいがあります。もちろん美術というくくリの中には、はっきりとした正解とか、正しい手法というものがあるとはかぎりません。理由を分析したり、問いつめたりするのでなければ、まず自分のしていることに、親(や、まわりのひと)が興味をもってくれているということ自体がうれしいものですし、年齢によっては、はっきりとよくできた!とかうまくいかなかった、とか、自分の基準が出てきます。まずは、その反応をおもしろがってもらうだけでも、自分のやっていることに対し自信が持てます。そんなところからはじめてみてはいかがでしょう。ちょっと脱線しますが、「ほめて育てよ」とばかりになんだかやみくもにほめちぎる人もいますが、最近の研究では、正しいことはほめ、間違ったことを指摘するという両方が一組でないと、脳科学的には教育効果が高まらないと考えられているのだそうです。とはいえ、これはわれわれ美術の専門家の方にも問題がありそうです。そのやり方は間違いです!というのは、ある種言いやすいアドバイスですから、ひどい時になると「ほめなければいけません」とか「教えてはいけません」とかいう人もいます。やみくもにほめるのは(もちろんほめるのがすごく上手な人もいます。そういう指導者はほめる内容に一定の秩序があります)気分がしらけるだけだったり、信用をなくすだけですから大した問題はないのですが、「教えてはいけません」というアドバイスは困るんです。もちろん教え過ぎの弊害はあります。曖昧なことを適当に教えてはいけません。しかし、美術の場合は教えることの努力放棄を、その言葉にウラに隠すことがあるのが困るんです。そういうひとに限って「自由に」とか「のびのび」とか「好きなように」と言うし、またその言葉どれもが素敵に聞こえるので困るんです。いつも言いますが、自分の好きなようにのびのび滑って3回転半のジャンプが飛べるなら、それは天才です。コーチいりません。はじめて飛んだら145mのバッケンレコード出しちゃったとか、それは指導とか言ってるレベルじゃありません、すぐに世界に送り出すべきです。なぜか一部のひとは、美術はいじっちゃだめとか、自然に伸びるとか思ってるんですよね。やはりできたこととできなかったことのあいだで揺れ動くことからしか実力はつかないし、成長はないような気がするんです。のびのびとか自分の好きなようにとかでは手に入らないものもあるんです。そう言うと、本当の意味で個性を要求されているクリエーターの皆さんは、にこっと笑って「えふではだからおもしろいよね」と返してくれます。自分の実力を伸ばすために本当に努力した人は、のびのびという言い方にちょっと抵抗があるようです。
このあいだすごいアートディレクターの柿木原政広さんが、デッサンコースの子どもたちにこんなことを話してくれました。「自分は大学の先生に『30歳までに3回チャンスがやってくる』そう言われて、チャンスがきた時にちゃんとつかまえられるように準備しておこうと思ったんだよ。そしてチャンスがきたとき、それがチャンスだってことがわかる自分でいようと思ったの。実際がんばって準備したし、チャンスがきたら逃がさないように意識できたから、そのとき大学の先生にそれを言われたこと自体に感謝してるんだよ」ここで忘れちゃいけないのは、このとき大学で、先生は生徒みんなにいってるんです。その投げかけられた言葉を、少なくても柿さんは自分のこととしてとらえている。あたりまえのようでいてこれがまずすごい。これこそ自分がチャンスに対して準備が「できている」ということだと思います。他にも柿さんはデザイナーになるまでのいろんなことを聞かせてくださったのですが、いつ訪れるかわからないチャンスを逃さないように準備を「常に」するんだよ…柿さんにそう言われた子どもは、自分のできる準備を欠かさずに、日々これはチャンスかもってポジティブにがんばるでしょう。そのメッセージが子どものこころのなかのどこかに火をつけたかも知れない。あれが本当の指導なんです。教えることはいくらでもできる。しかし、教えられたことが「できる」ようになるためには、実はその段階できちんとした準備がいる。教える側は常にメッセージを送っているんです。しかしそのメッセージを自分に投げかけられたもの、として感じるには準備がいる。だから教えてすぐにできるようになることなんか、たいしたことじゃないんです。その意味でえふでの子には「できるようになること」にこだわってがんばって欲しいんです。それはチャンスが来た時に、おもいっきりアピールするための準備なんです。教えるって応援といっしょですから、ある意味外側の立場でしかないんです。大切なのは「自分が」できるようになること。えふでの子どもがんばれ。ワシもがんばる!