ジョン・レノンさまは「イマジーン♪」想像してごらん、とやさしく歌いかけてきますが、そう簡単なことではありません。考えたり、想像したりするのはとてもエネルギーを要すること。脳ミソ熱くなって湯気が…なんてマンガみたいなことはあり得ませんが、想像することくらい誰にでも簡単にできるってのはちょっと話が安易すぎる気がします。
たとえば車の運転。運転席の人と助手席の人は同じ景色の中、違うリアリティでものを見ています。産まれたばかりの子どもの場合、これまた同じ景色の中で、赤ちゃんは一体何を見ているのでしょうか。そんなことを改めて深く考えさせられたのは「目が見えない人の世界」を想像する機会があったから。手で触って、手で見て楽しむ写真展『Touching the Images———ふれる写真展』(世田谷文化生活情報センター生活工房主催)は、えふでがいつもお世話になってる写真家の服部貴康さんが企画したいっぷう変わった写真展。どこが変わってるかというと「目の見えない人たちと、写真でコミュニケーションする」という点。撮った写真をパソコンで線描に加工し、さらに特殊な立体コピー機で立体に盛り上げる「触る写真」という技術を使ったものでした。
パソコンの線描加工には、若手デザイナー陣が力を発揮していました。さすがグラフィックのトレーニングを受けてきた専門家たち、とても器用に要素を抽出してシンプルな画像を作っています。たとえば写真から加工されたワシの線描は左の一枚。雰囲気あるでしょ?
しかしこの図を見て「校長だ」と理解できるのはある種の約束事がわかっている人たち。そして目を閉じて線をさわるだけで、これがワシを表した絵だって理解できるかどうか…展覧会スタッフが予想していた以上に難航したのは「写真は平面である」ということでしょう。先に触れたように、目の見える私たちですら、お互いに同じ世界を見ているわけではありません。見ることに対する根源的な経験値のちがいがあるのです…例えばワシがよく授業で話すのは、
1/平面の六角形です

2/平面の六角形に線が足されたかたちであり立方体のしるしでもあります

3/こうなると複雑すぎてさらに多くのパターンに読めてしまいます

同じ形から、違うものができる。平面表現には視覚的・文化的な約束事があり、これが理解できるということは、日常的にある種の視覚トレーニングを受けている証拠なのです。われわれが線で描かれたかたちから立体や空間を認識するのには、かなりの文化的な約束事が前提になっているのがわかります。ちょっと大げさに言いますが、これだけ抽象的な図像から、立体的なものごとを読み取るちからがある国民は本当に稀で、これには識字教育の充実が大きく影響しています。昨今では幼少期・小学校での英語教育について議論が多くなっていますが、数学も図学も国語もある種の言語教育だと仮定してみれば、楽しく学ぶ…と、言葉の響きは心地よくとも、雰囲気だけのコミュニケーションをやっている余裕はないのが実情です。共通認識の土壌が無くなってから再構築するのは、とてつもない努力がいるはずです。
つまり結局、最後は想像力です。お互いの認識のずれや理解の開きは、想像することしかできません。「わかり合えて当然」ではなく「もしかしたら根源がわかりあえていないかもしれない」という懸念を常に持つことも必要です。それはわれわれのあいだにもあることですし、大人と子どものあいだにも、目の見えるひとと見えないひとのあいだにも、聞こえるひとと聞こえないひとのあいだにも、男のひとと女のひとのあいだにも、この国のひとと違う国のひとのあいだにも…ありとあらゆる価値観のあいだにある可能性です。「話題に出すこともけしからん」とか言う人もいますが、まほうの絵ふでは、ちがいを想像するところから始めてみようと思っています。
ー与えられる喜びよりも他人に与える喜びを知ることー
想像力には歴史や経験を通じ、未来にあるべき姿を見いだすという役割もあります。「人の行動は、二段階で完成される。幼時には、いわゆるしつけや教育をして、人間としてこうであるべき基本を作るのである。しかし戦後の日本人はしつけを放棄した。しつけは封建的、保守的思想を強制的に植え付けるものだとして、頭から拒否する風潮があった。」これは作家の曽野綾子さんが小学館に寄稿された『賢い国民の幼い国家』と題されたエッセイです。良薬は口に苦いと言われますのでそのつもりで続きを。「(略)現在の日本人の多くは、私から見ると、その本質的な賢さや実年齢にもかかわらず、愚かで幼い一面を残している。『安心して暮らせる生活』を実現しろと政治家に要求するのもその一つだ。『安心して暮らせる』世の中など、いつの時代になってもあるわけがないことがわからない。」ひぃ〜っ。さらにはこう続きます。「教育には、強制の面と、自己の選択によって自由に興味を伸ばす面と二つがある。幼時から始める教育の大切さは、問答無用に、常識的な社会の規約に従わせることだ。幼児教育と、初めての体験をさせる場合には、強制の要素が当然加わる。挨拶をすること。人と付き合って、人間関係を知ること。人に迷惑をかけないこと。人間の命を絶たないこと。盗まないこと。感謝をできること。本を読み、学ぶこと。人生の苦悩に継続して耐える力を養うこと、などが幼時から行なう教育の特徴である。」
うーむ。たしかに当たり前のことばかりだが、問答無用に、か…ワシらもまだまだ甘いかの…
「その後に成人教育が続く。すべての教育責任は自分になる。教育するのは親でもなく、教師でもなく、社会構造でもない。従って教育も強制ではなく、自発的なものになり、自分を磨く者は自分だけになる。外界が悪い場合でも、強靭な個性があれば、それらを反面教師として使うことができる。」
なるほど。それはたしかにその通り。ノーフューチャーッ!とか叫んでる場合じゃないぞな。
「生涯に亘ってひたすら、謙虚に失敗を重ねつつ、自分で自分を教育するのが成人以後の教育だ。自分の意志を持つこと。一生に亘ってしたい仕事や研究を見つけること。社会の一員として自分を位置づける謙虚さと視野の広さを学ぶこと、などである。」ぬあ〜社会の一員。ワシなんか絵描きの道を選んでしもうたぞな…ぬぬ…「(中略)こうした残酷さを基本的に内蔵する人生を生きるには、やはり厳しさに耐える訓練と、哲学を学ぶことが必要なのである。快感を覚える方向が現在のところは間違ったままであることも問題だ。今、人々は与えられることだけを求める。魂の幼児性である。しかし真の大人は、与えられる楽しさと同時に人に与える幸福を知っている。与える充実感を若者も覚えなければ、心はいつまでも飢餓感に苦しめられる。受けるのに馴れると、人は『もっと与えろ』と叫び続けるからだ。この心理の流れを変えるのは、強固な自分を保ち、受けるばかりでなく他者に奉仕する充実感を知ることなのだが、与えることは国家に自由を売り渡し、しかも損な行為だと思う人たちが多い間はまず実現不可能だろう。」
曽野先生、ありがとうございました…。なんつーか、ワシなんか耳が痛いぞな。皆さんはどうお考えになりますか?この辺りのこと、お互い想像力を駆使して考えてみませんか、頭から湯気が出るくらい…イマジーン♪。