家にはたいがい窓がありますが、そんなあたりまえだと思っていることをちょっとひねって、窓が無い家を想像してみて下さい。「あり得ない、息苦しいじゃない!」とか「まるで牢獄じゃないか!」なんて感情は少し抑えてね、あくまでたとえ話ですから。ですが読んでいるうちに、たしかに窓はいらないかも…とか、ちょっと混乱してくるかも知れませんよ。窓が必要というのはノスタルジーだ…なんて感じるかも知れません。
さてそれでは始めましょう。窓ってどんな役割をしていますか?外の明るさを室内に入れてくれるし、開ければ換気もできる。風がそよそよと入って来るし、外の花の香りもする。…じゃあ逆にネガティブなところはありますか?ない?ここからはイマジネーションの問題です。何かありませんか?例えばセキュリティの意味では、壁を壊して入って来る泥棒は聞きませんが、窓は割られたり、カギが壊されたりと、防犯上の弱点ではありますね。断熱の関係でも窓ってすごく効率が悪いです。北海道だと冷気が入って来ますし、凍りついたり結露したり、逆に夏の日差しは暑いし、外の熱気も窓から入ります。加えて人から見られるのも気になるところです。そんな意味でもブラインド、カーテンなどを取り付ける必要が出てきて手がかかります。といったように、窓のせいで起こる問題も少なくないようです。
そこで、思い切って窓のない家にしてみました。窓のかわりに液晶テレビを埋め込み、外の景色をカメラで写す。外が明るければ、部屋も明るい。外が暗ければ窓のように画面も暗くなるのですからそれほど変わらないかも。カーテンをしなくても暑い日差しは入ってこないし、人から見られる心配も無い。肝心の換気や断熱は高性能なエアコンを使うことで問題解消。窓がないと寂しいとか、考えられないとかいうのはノスタルジーなのかも…です。だって、新しい概念が生まれると、それまでにあたりまえだったことが大きく変わるのはよくあること。昔と比べればあんまり手紙も書かなくなったし、車に乗っても、昔ほど窓を開けなくなったような気もする。蛇口から水を飲まない子どもも増えたような気がするし、家の電話が鳴ることも少なくなった。本のかたちの辞書は時間がかかって引いてられない、計算問題は計算機を使っても良いことになった。ICカードなどを使えば値段を見て切符を買わなくてもいい…そう考えると、窓が無いと寂しいとかいうことも、取るに足らないことかもしれない。…などといいながら、実はその「とるに足らないこと」のなかで失われてしまうものがある。それがたとえば工作のセンスというものなのではないか。というのが作家の森博嗣さんの意見です。
たとえば、窓が無くなったら、窓を開け閉めするという行為は「昔懐かしいもの」になってしまいます。すると窓がスムーズに開く、スムーズに閉まるというのはごくあたりまえな観念的なものになり、きしむとか、砂がレールに噛みこんでひっかかるとか、そういう感覚を共通の認識として持つことが難しくなります。
同じようなことが、すでに起こっています。現在では窓は工場で作られ、現場ではめ込むものになっています。昔のようにゆがんで閉めづらくなった窓を自分で修正した経験のある人はもう少ないでしょう。雪の重みなどで建物が歪めば窓の動きも渋くなりますし、雨など水分を含めばふくらんで開け閉めが固くなる、…そういうことに対する想像ができなくなる。たったそれだけのことが、巡りめぐってたいへんゆゆしきことがらになってしまうと問題提起されているのです。
作家活動の前に長く大学でものつくりを指導された森さんは、設計するとき、設計通りに作ってうまくいかないはずが無いと思う学生の割合が多くなったことに触れています。ここにはしみじみ共感するのですが、あんまり工作したことない子どもって、本当にとんでもないところで「うまくいくはず」だって思うのです。多くの方は「できる」という強いイメージを「ポジティブシンキング」として好ましく思うのかもしれませんが、実際にものをつくる立場にいる人、ものつくりを数多く体験して来た人の考えることはそれとはちょっと違うのです。意外に思われるでしょうが、どちらかというと作る経験を重ねた人の方が悲観論者的な思考をすることが多いようです。もちろん例え趣味であっても、規模が大きくなったり、おかねが掛かっていたりすると、失敗してもしょうがない…とはなりません。
えふでの親御さんの中にも自宅のリフォームとか、自動車の修理とか、ほとんどプロみたいな人がけっこういますが、鉄則は「ケガをしない/させないこと」です。とはいえそういう校長も失敗は数限りなくしてきました。長い時間をかけて作ったものを、完成直後にダメにしたこともありますし、大きな物をつくって自重でひしゃげたり、トラックに載せるときひっくり返った、運ぶとき風で飛んだ…。バカなミスでダメにしたこともあれば、ぎりぎりで大成功したこともあります。そういった失敗のほとんどは起こりそうな問題を想像できない経験の少なさから来ていたり、まあなんとかなるだろうといった見通しの甘さ、過信からのものだったりします。
作る自信というのはありすぎても、なさ過ぎてもダメなのです。プライドが高い人も心配です。ともするとできていないという結果とか現実とかを、なかなか正面から受け入れられなかったり、設計は間違えていないはずとか我を張って、そういうところで意固地に止まってしまうこともありますから。
ということで工作の経験が多い人ほどチェックのポイントが多く「こういう部分が難しい」「ここで失敗するかもしれない」という悲観論者的な言い方をして、素人(?)に釘をさす言動になることが多いのです。
さて、北のエリートなどとほめられることもあるえふでの諸君にメッセージ。…ワシからじゃないけど。前出の森さんはこんなことにも触れているのです。「エリートは、わからない人を指導することが仕事になったりする。できるできないで優劣を意識させるのが仕事じゃない。だからできる人は『自分がわかることを、わからない他者がいる』ことの認識が重要だ。」と、これも健全な失敗経験が無いと想像すらできないものなのです。そういう意味では近年の方があり得ないようなミスや失敗で大騒ぎになることが多いようにも思えてきますが…。
えふでの子どもたちには経験をたくさん積んでもらって、難易度が高くてしびれるようなプロジェクトを成功させてもらいたいものです。世界中から賞賛されたり…とかね。自由にのびのびじゃないんだよ、自分に厳しくなのだ。
絵を描き、工作をたくさんせよ!失敗を予見する感性を磨き、できない他人を導く人になれ!ハラハラドキドキするような制作体験の積み重ねなくして、そういうヒーローにはなれないぞな!